海上自衛官(2)

自衛官が海外駐在する際は、配偶者や子どもを帯同するのが決まりです。林1佐は独身だったため、上官から「ハワイに行くまでに結婚しろ、それが無理ならとにかく誰かしら家族を連れて行け」と無茶ぶりされました。家族といっても、母親の愛子さんはすでにシニア、海外旅行すらしたことがありません。それでも選択肢のない林1佐は愛子さんに「向こうで一段落したら日本に戻っていいから」と思いきり嘘をつき、半ばだます形でハワイに連れて行きました。しかもハワイでは愛子さんが勝手に帰国してしまわないよう、しばらくパスポートを隠していたとか。林親子の苦労がしのばれます。
 それでも愛子さんは少しずつ現地の生活に慣れていきました。愛子さんは車の運転ができないので、買い物は週末に林1佐が運転する車で行って1週間分をまとめ買いします。愛子さんは庭に小さな畑を作り、ネギを育て始めました。林1佐も連絡官として米海軍太平洋艦隊司令部で精力的に働き充実した日々を過ごしているとき、えひめ丸の事故が起きました。
 そこからは怒涛の日々だったそうです。高校生4名を含む9名の行方不明者の家族にとって、林1佐は「米海軍に属する敵」以外の何者でもありませんでした。米軍に対する激しい憤りはすべて、林1佐にぶつけられました。
 行方不明者の家族の中には、実は自衛官もいました。その自衛官ですら、最初は林1佐に対して怒りと敵意を隠そうとしなかったそうです。
 日本とアメリカでは、事故が起きた後の当事者の対応は大きく異なります。日本では被害者の家族の心情を汲みます。しかしアメリカは、良くも悪くも合理的です。その態度が家族の気持ちを逆なでしました。
 そもそも事故は、米海軍の原潜がゲストを乗せていたことで、浮上に対して周辺の警戒が通常よりも散漫になっていたことが原因でした。しかも事故当時、操縦桿はゲストに握らせていたといいます。言葉が通じる同じ日本人の林1佐は、家族にとって怒りをぶつける唯一ともいえる対象でした。林1佐は家に帰る間もなく、事故処理に奔走しました。
 1週間経っても、さほど遠くない家に帰る余裕はまったくありません。自宅の冷蔵庫は空になっているはずです。ひとりでは買い物に行けない愛子さんが食事に困っていないか、そもそも言葉も通じない土地でひとりきり、不自由や不安はないだろうか。体調を崩したりしていないだろうか。林1佐は心配でしたが、どうにもできませんでした。
 その頃、愛子さんは林1佐が想像すらしていなかった状況にありました。
 事故に関する電話は、林1佐の自宅にまでかかってきていたのです。
 慟哭、叱咤、苦情、怒り、嘆き、そして林1佐の立場を知る人からの応援や激励。
 そういった電話がひっきりなしにかかってきていました。愛子さんはそのすべての電話をひとりで受け、内容を書き留めました。食べるものはなくなりましたが、畑で育てていたネギと庭に自生していたマンゴーで食いつなぎました。
 久しぶりに林1佐が帰宅できたとき、愛子さんは自宅にかかってきたすべての電話の内容を書き留めたものを差し出し「全部読みなさい」と言いました。魂の叫びのような言葉が並んでいます。
 もしかしたら電話を受けた愛子さんも責められたりなじられたりしたかもしれません。胸の張り裂けるような思いをしたかもしれません。それでも 黙って聞き、林1佐に漏らさず伝えることが自分の役割だと思われたのでしょう。疲労困憊していた林1佐でしたが、ぶ厚いそのメモを丁寧に読み進めたそうです。
(以下次号)
(わたなべ・ようこ)
(平成28年(西暦2016年)12月8日配信)