自衛隊海外派遣の歩み (1)

今年9月、通常国会としては戦後最長の会期で約220時間の議論を重ね、安全保障関連法が成立しました。
「戦争法案」「海外派兵」などの声を上げたデモも行なわれましたが、デモに参加している人の中に、法案の内容を理解できている人がどれだけいたのでしょう。安保法案=戦争と思い込んでいる人が多かったのではないでしょうか。
 また、自衛隊が海外派遣される際にどの法律に基づきどのような制約の中で活動しているか、はっきり把握している人がどれほどいたのでしょう。海外派遣=PKOと思っている人も少なくなかったのではないでしょうか。
 言論の自由、集会・結社の自由、表現の自由、みな憲法で認められている国民の権利です。デモを行なうことに異議を唱えるつもりはありません。けれどデモの先頭で声を上げる若者の主張は悲しいほど短絡的で、それに乗ろうとする政党・政治家の姿もみじめなものでした(私にはそう映りました)。
 話を戻しましょう。確かに国際平和協力法(PKO法)によって自衛隊が派遣されたケースは過去に9度ありますが、災害派遣の場合は国際緊急援助法に基づいての派遣、それ以外は海外派遣のニーズが発生してから急きょ時限法を制定、期間限定の法律に基づいて派遣されています。
 そこで今回の連載では「自衛隊海外派遣の歩み」と称し、自衛隊の海外派遣の歴史を振り返ってみます。
 海外派遣のさきがけとなったペルシャ湾掃海派遣部隊
 イラク軍によるクウェート侵攻から端を発した湾岸戦争。日本は自衛隊を海外派遣するか否かという問題に直面し、他国からのプレッシャーと賛否渦巻く世論に大きく揺れました。
 1990年8月2日、イラク軍がクウェートに侵攻し首都を制圧。翌年1月17日、多国籍軍による「砂漠の嵐作戦」が始まり、湾岸戦争が勃発します。
 イラクは劣勢挽回のため、湾岸海域へ原油を意図的に流出したり、クウェートの油井への放火といった行動を起こします。さらにペルシャ湾北部に約1200もの機雷を敷設し、展開中の多国籍軍艦艇に大きな脅威をもたらしました。実際、米艦が触雷して大きな被害を受けています。
 2月24日早朝に地上戦闘が開始され、約100時間後の28日に多国籍軍の圧倒的勝利をもって戦闘は終了、4月11日には停戦が発効されました。しかしペルシャ湾には多数の機雷が残されたままで、依然として船舶の安全を脅かしていました。
 湾岸危機直後、日本政府は「クウェート侵攻は遺憾」というコメントをした後、石油輸入禁止等の経済制裁措置を決定しました。
 さらに8月13日には、15日から予定されていた海部俊樹首相の中東5か国訪問の延期を決めます。これは他国の迅速な対応と比べ、かなり慎重といえる対応でした。
 人道的援助を求める声に対しても、ボランティアの医療要員派遣の可能性を表明するなど、限定的な協力にとどまる姿勢を見せました。
 しかし、イラクが外国人を即時に出国させる要請にも応じず、在留邦人を軍事施設の盾にしていることが判明すると、政府は「国連平和協力法」の検討を始めます。その背景には、9月末の段階ですでに40億ドルに達する多国籍軍への財政支援を行なっていたものの、「資金援助だけでは国際社会に通用する貢献とはいえない」と、アメリカなどから強く言われていた事情もありました。
 ところが審議は難航、11月に同法案は廃案となります。
 代わって急浮上したのが、自衛隊法を改正したり新法を制定したりする必要のない、航空自衛隊輸送機による難民輸送案です。
「砂漠の嵐作戦」が始まると、政府は内閣に「湾岸危機対策本部」を設置。自衛隊輸送機派遣の方針を固め、多国籍軍への追加資金協力90億ドル拠出と合わせた貢献策を決定しました。難民の輸送準備のため、事前調査団もヨルダンに出向きました。
 しかし2月に入ると、ヨルダン国内の情勢が輸送機運航に適さず、避難民の数も少ないことなどを理由に、自衛隊機派遣に慎重論が出てきます。
 その結果、追加の資金協力は行なう一方、自衛隊輸送機派遣は見送られることになりました。
 多国籍軍へ130臆ドルもの財政支援は行なったものの、クウェートやアメリカからの視線は「金は出しても人は出さない」と、きわめて冷たいものでした。
 クウェートはアメリカの主要な新聞に、各国の支援に対する感謝の広告を掲載しましたが、その中に日本の国名はありませんでした。 130億ドルとは当時のレートで約1兆5500億円です。それほどの大金をはたいても、日本はクウェートをはじめ国際社会からの理解も評価も得られなかったのです。
(以下次号)
(わたなべ・ようこ)
(平成27年(西暦2015年)11月26日配信)