マーケット・ガーデン作戦はなぜ失敗したのか?(前編)




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はじめに

 

 二次世界大戦中、英国を中心とする連合国側が、ドイツ軍の使用するエニグマの解
読に成功し、解読した「ウルトラ」情報を軍事作戦に利用したのは有名な話である。

 

 しかし、エニグマの解読は、情報戦という広い意味では小さな部分的成功に過ぎな
い。というのも、解読に成功された情報は部分的で断片的な情報資料(インフォメーシ
ョン)にしか過ぎないからである。断片的な情報資料は、集積した上で、比較分析を行
い、断片的な情報資料を繋ぎ合わせて全体的局面を判断できる情報(インテリジェン
ス)にしなければ役に立たないのである。

 

軍事・安全保障の世界では、インフォメーションとインテリジェンスを区別するが、玉
石混交のインフォメーションから意思決定に必要な確度の高い情報(=インテリジェン
ス)を抽出しなければ、リソースを投入して収集したせっかくのインフォメーションも
無駄になってしまうのである。

 

 また、こうして効果的に収集・分析されたインテリジェンスが、必要なユーザー(軍
事の世界では司令官などの指揮官)によって効果的に利用されるとも限らない。

 

第二次世界大戦のアフリカ戦線において、チャーチルを始めとするイギリスの最高統帥
部が、現地の軍司令官オーキンレック大将に、「ドイツ軍が適切な補給を受けておらず
弱体化している」とのウルトラ情報を通知しなかった結果、オーキンレックはチャーチ
ルが望む攻勢作戦をとらなかったため司令官を解任されるという事態も起こっている。

 

 他方で、米第3軍のパットン大将は、ウルトラ情報の優れたユーザーとなった。パッ
トンは、グデーリアンのように装甲指揮車に搭乗し、自身が指揮する部隊が展開する戦
場近くで指揮をとっていたので、ウルトラ情報の活用が容易だった。

 

 パットンとは逆に彼の好敵手である英国のモントゴメリー元帥は、「ウルトラ」情報
をあまり重視しなかった。エニグマ研究の名著『ウルトラ・シークレット』(早川書
房、1976年)の中で著者のF.W.ウィンターボーザムは、 1944年9月のマーケット・ガ
ーデン作戦において、ウルトラ情報が無視されたと書いている。ウィンターボーザムに
よれば、ウルトラ情報は、「ドイツ軍の強力な機構連隊がイギリス空挺部隊の作戦展開
地域に存在する」と警告していたが、モントゴメリーはこの警告を無視し作戦を強行し
た。しかもモントゴメリーは、空挺部隊がアルンヘムへ降下する前日に、「スズメバチ
の中に空挺部隊を降下させるようなもの」との警告文を開封しなかった。読者諸賢も周
知のとおり、空挺部隊が降下したアルンヘム周辺には精鋭のドイツ軍SS装甲師団が存
在し、ドイツ軍は降下してきた軽装備のイギリス・ポーランド軍空挺部隊を降伏させる
ことに成功し、マーケット・ガーデン作戦は無残な失敗に終るのである。

 

Captains Without Eyesにおいてライマン・B・カークパトリックは、マーケット・ガー
デン作戦失敗の原因を幾つか指摘した上で、情報不足が作戦失敗の最大原因であるとの
結論を出している。また、説得力のある情報を無視し、大胆な作戦計画をあまりにも性
急に実行したことにその原因を求める研究者もいる。第三の考え方として、ドイツ軍が
アルンヘムで最後の抵抗をするのに間に合ったのは奇跡的なことであり、このドイツ軍
の行動は情報コミュニティー(各国政府が設置している複数の情報機関すべてを指す用
語)が予測できる範囲外の事件であったというものもある。

 

この他にも、悪天候まで含め、作戦失敗の原因としては、その他多くの要素が存在する
が、今回と次回の二回に分けて、なぜ、マーケット・ガーデン作戦が失敗したのかにつ
いて、指揮官の情報活用の点から分析してみたいと思う。

 

 

マーケット・ガーデン作戦が立案された背景的事情

 

ず始めに、マーケット・ガーデン作戦計画が立案された当時の状況を概観してみよ
う。ノルマンディ上陸作戦の成功から3ヵ月後、ドイツ軍はオランダへと退却した。
1944年9月17日、連合軍は歴史上最大の空挺作戦であるマーケット・ガーデン作戦を実
行することにより上陸作戦以来の戦果を拡張しようと試みた。マーケット・ガーデン作
戦の作戦規模は、戦闘機・爆撃機・輸送機5000機、グライダー2613機、爆撃機・戦闘
機・その他の近接航空支援機の出撃回数5700ソーティという大掛かりなもので、対ドイ
ツ戦を迅速に終結させる意図をもって実行された。

 

1944年9月当時、9月終わりまでに第三帝国が崩壊するように思われていた。連合軍最高
司令部G2(情報部)による情報報告は、当時の状況について「8月の戦闘が終了し、西
部方面の敵は敗北した。2ヵ月半の激戦が、欧州における戦争の終結を目前に、手の届
く範囲内にもたらした」と分析している。この報告の1週間後には、ドイツ軍が「無秩
序で、士気阻喪し、装備も武器も満足に持たぬ烏合の衆」であるとの報告も出された。
イギリス陸軍軍務局長ジョン・ケネディは9月6日に「最近のような速度で行けば、9月28
日までにベルリンに突入できよう」と書いている。

 

しかしながら、連合軍側には一つの問題が存在した。連合軍側はノルマンディからの突
破があまりにも成功しすぎて、兵站終末点に達していたのである。連合軍は8月にブリ
ュッセルを解放し、9月にはアントワープを占領したが、アントワープ港への海上から
の接近路をいまだにドイツ側が掌握していたために、アントワープ港を使用できないと
いう事実は、連合軍首脳部を失望させた。このことは、大規模な連合軍部隊が欧州大陸
において大規模補給港を使用できないことを意味した。このため、連合軍にとって、唯
一使用可能な大規模補給港はシェルブール港であり、連合軍は、前線から720キロ後方
にあるシェルブール港に補給品を揚陸し、そこから「レッド・ボール・エクスプレス」
と呼ばれた輸送トラックを使用して前線に物資を補給せざるを得なかった。

 

これらの状況が、第21軍集団司令官モントゴメリー元帥と第3軍司令官パットン大将と
いう個性と自己主張の強い2人の部下のどちらに兵站の優先権を付与するのかという圧
力をアイゼンハワー元帥にかけていた。モントゴメリーもパットンも、自分の軍こそが
連合軍が利用できる全ての補給資源を優先的に付与されるのにふさわしいとアイゼンハ
ワーを説得しようと努めた。アイゼンハワーは、政治的理由からモントゴメリーに兵站
上の優先権を与える決定を下した。

 

この決定の背後には、ドイツ軍が主導権を再奪取する前に、ルール、ザール、ライン川
にかかる橋梁といった作戦的な重要地点を占拠するためにドイツの防衛線を迅速に突破
することは、アイゼンハワーにとっても魅力的なものであったという理由も存在する。
これを裏付けるように、アイゼンハワーは戦後、ライン川の橋頭堡を奪取するためなら
ばその他全ての作戦を停止することさえも希望したと述べている。

 

 

マーケット・ガーデン作戦の作戦計画

 

ーケット・ガーデン作戦の作戦目標は、ライン川対岸に橋頭堡を確保することにあっ
た。アイゼンハワーがドイツ軍に主導権を取り返されることを望んでいなかったため、
作戦実行の時期は急を要した。この緊急性という問題のために(Dデイは9月17日に設定
された)、モントゴメリーの部隊は、作戦立案までにわずか1週間しか与えられなかっ
た。

 

ライマン・B・カークパトリックによると、モントゴメリーの計画は、「連合軍とドイ
ツ側の重要なルール産業地帯の間に存在する全ての河川を横断し、ジークフリート線
(ドイツ側の要塞戦)の北端を迂回し、北ドイツ平原への道を切り開くための一撃を」
企図した大胆不敵な作戦であった。

 

もしライン川を渡河したならば、ドイツの心臓部が連合軍に暴露されることになる。マ
ーケット・ガーデン作戦は、モントゴメリーの部隊がベルギー北部からオランダ北部ま
での6つの橋を奪取することを必要としており、その最後にして最も緊要な橋が、前線
から102.4キロ後方のアルンヘムでネーデル・ライン川にかかる橋梁であった。

 

ドイツ軍がアルンヘムの橋を破壊する以前に、連合国軍側の地上軍部隊がこの橋を占拠
可能な迅速さで機動できないと考えたモントゴメリーは、地上軍部隊到着まで6つの橋
を確保する目的で、6つの橋に空挺部隊を投入する計画を立てた。この作戦の空挺作戦
はコードネームでマーケット作戦と呼称された。

 

機甲部隊を主力とするイギリス第30軍団を先陣としたイギリス第2軍は、空挺部隊によ
って前もって確保された1本の狭い回廊を通過して攻撃を行うように計画が立てられて
いた。この機甲部隊による地上侵攻作戦が、マーケット・ガーデン作戦のガーデンであ
る。

 

もし作戦が成功したならば、この地上作戦が、オランダ西部に存在するドイツ軍の退路
を切断することになるはずであった。しかし、地上侵攻部隊の前進が、極めて狭い1本
の回廊に依存していたという点で、この作戦には問題があった。

 

 

作戦の結末と作戦失敗の原因

 

 者諸賢も映画「遠すぎた橋」などで周知のごとく、マーケット・ガーデン作戦は、
9月17日から9月26日まで続いたが、低ライン川渡河点を確保するという目的を達成する
ことには失敗した。北部ドイツ平原を通ってベルリンに至る回廊を開くことにも失敗し
た。空挺部隊及び第30軍団を含む損害の総計は、11000人に達した。6つの橋のうちの5
つの橋の奪取には成功したが、アルンヘムでネーデル・ライン川にかかる最後の6つ目の
橋を奪取することには失敗した。アルンヘムでの抵抗及び第30軍団が通過したルート上
でのドイツ軍の抵抗が予想以上の抵抗であったため、空挺部隊は地上軍部隊がアルンヘ
ムに到着するまでアルンヘムの橋を保持することができなかった。そして最も重要なこ
とは、モントゴメリーの希望とは異なり、この作戦は第三帝国の崩壊をもたらさなかっ
た。

 

 この作戦が失敗した原因については多くの説が存在する。最もよく引用される説の
1つが、

 

(1)敵の過小評価
(2)地形判断のミス

 

という2つの分野における大きな情報の誤りの結果、作戦が失敗したというものである。

 

一見したところでは、これらの見解の評価は、適切な情報を提供するのに失敗した情報
コミュニティー側の失敗のように見受けられる。しかし、作戦立案者は適切な情報を利
用可能であり、マーケット・ガーデン作戦前までの成功によりもたらされた当時の楽観
的雰囲気によりリスクを示唆する情報は見過ごされたとする研究者もいる。

 

 

アルンヘムに所在するドイツ軍の兵力に関する情報は正確だったのか?

 

 まず、敵をなぜ過小評価してしまったのか?という点から考察してみよう。この問題
を考える上で最も重要な点として、アルンヘムに所在する敵兵力情報を検討してみる必
要がある。もし、敵兵力の見積もりがそもそも間違えていたら、単純に情報コミュニテ
ィーもしくは情報収集者のミスとして話は済んでしまう。

 

アルンヘムの敗北は、連合軍側の空挺部隊が約2000名の新兵から編成されるドイツ軍部
隊からの小規模な抵抗を受けると見込まれていると伝えられたにもかかわらず、実際に
は大砲及び戦車を装備した6000名からなるSS第9機甲師団及びSS第10機甲師団と遭遇し
たという事実に原因が存在する。アルンヘムの兵力情報は果たして不正確であったの
か?この問いに対する回答は、どの報告を信じるかにかかっている。

 

 アルンヘムへの空挺作戦計画立案に責任があったイギリス軍第1空挺師団師団長アー
カット少将は、師団長レベルではアルンヘムの敵兵力に関する情報はほとんどなかった
と述べている。しかしながら、アーカットの上司であるイギリス第1空挺軍団司令官ブ
ラウニング中将は、アーカットの部隊が「少数の戦車によって支援された1個旅団以上
のドイツ軍には遭遇しそうにない」とアーカットに伝えている。

 

たとえ、ドイツ軍兵力に関する詳細な情報の欠如がアーカットが計画立案をする妨げに
ならなかったとしても、軍団以上のレベルでは利用可能なより完全な情報が存在した。
実際に9月10日、第21軍集団の情報要約(intelligence summary:INTSUM)は、「第2SS
装甲軍団の一部である第9及び第10SS装甲師団が、アルンヘム地域において再補給を受
けていると報告されている」と述べているのである。

 

 このINTSUMの内容は、別の情報源であるオランダのレジスタンス勢力からの情報によ
っても確認された。結局、この情報は、アーカット及びその幕僚にも知らされたが、こ
のとき彼らは相反する情報にも直面していた。ライマン・B・カークパトリックは、
「とても複雑な作戦計画を立案するのに1週間しかなく、その地域における敵軍部隊に
関してのさらなる情報を収集する時間がなかったことを考慮するならば、この情報の矛
盾は無理もないことだ」と述べている。

 

 アーカット及びブラウニング中将指揮下のイギリス第1空挺軍団の情報参謀は、ライ
マン・B・カークパトリックの説に反対している。アーカット自身は、ブラウニング中
将が9月10日に情報要約を見たが、ブラウニングからは「報告は恐らく誤りであろう。
いずれにせよドイツ軍は再補給中であり、戦える状態ではない」と言われたと断言して
いる。

 

他方ブラウニングを説得するためにアーカットは、アルンヘムの降下地点地域における
ドイツ軍部隊を低高度から撮影するように命じている。この写真は9月10日の情報要約
の内容を確認しており、第1空挺師団の主要降下地点の周囲の森林の中に駐留している
ドイツ軍戦車及び装甲車輌を写し出していたが、ブラウニング中将は再度この証拠を無
視した。

 

 アルンヘムのドイツ軍兵力について懸念を抱いたのはアーカットだけではない。
実際、アルンヘムで再補給中のドイツ軍機甲師団についての徴候の高まりはモントゴメ
リーの情報責任者を慌てさせた。これに加えて、モントゴメリーの参謀長がドイツ軍の
抵抗増加についてモントゴメリーに警告していた。

 

9月16日、連合国軍最高司令部の週間情報要約(INTSUM)は、ナイメーへン及びアルン
ヘム周辺に2個の機甲部隊があるという報告を確証していた。この報告はアイゼンハワ
ーの参謀長ウォルター・べデル・スミス中将を驚かせた。スミス中将は、ナイメーヘン
及びアルンヘムに降下する部隊を大幅に増強させるようにモントゴメリーを説得しよう
と努めたが、モントゴメリーは「この考えを嘲笑した」という。

 

実際に敵中に降下する空挺部隊の指揮官は、貧弱な対戦車能力しか持たずに降下しなけ
ればならないので、ドイツ軍戦力について明らかに懸念を抱いていた。しかし、モント
ゴメリーは、ドイツ軍が士気阻喪しているので抵抗することができないという事実に依
拠しているらしかった。情報コミュニティー内のマーケット・ガーデン作戦に対する批
判者は、作戦計画が完成する以前からこの作戦に反対していた。批判者は、「例えドイ
ツ軍が士気阻喪していたとしても、ドイツ軍部隊はドイツ本土国境で頑強な抵抗をしな
いことはありえないように思われる」と想定していた。

 

 

敵の過小評価は、なぜ起きたのか?

 

ルンヘムのドイツ軍兵力に関する情報は完全ではなかったが、量的には十分であった
といえるようである。さらに、アイゼンハワー、モントゴメリー、ブラウニング及び彼
らの参謀といった重要な意思決定者は意思決定の際に利用可能であったとも言えそうで
ある。つまり、情報コミュニティーもしくは情報収集者のミスではなかったのである。

 

では、連合軍側はアルンヘム周辺のドイツ軍兵力について完全ではないものの正確な情
報を入手していたのにもかかわらず、敵を過小評価するミスを犯してしまったのであろ
うか?

 

 ブルックリン研究所のリチャード・ベッツが、この問題を考える上で参考になる指摘
を行っている。ベッツは、「情報の失敗として最もよく知られる事例は、最も死活的な
ミスが情報の収集者によってはめったに行われることはなく、そうしたミスは最終的な
情報分析を行う情報専門官によって時折行われ、情報部の情報を消費する意思決定者に
よって最もよく行われる」と述べているのがそれだ。

 

 換言するならば、情報コミュニティーが、正確な情報を意思決定者に提供しても、意
思決定者がその情報を正しく「評価」した上で、「活用」しなければ、「情報の失敗」
といわれる事例が発生するというのである。

 

 情報を活用するに際し重要な点は、関連する情報を正しく「評価」することにある。
これこそが、作戦レベルでマーケット・ガーデン作戦を立案に関与した人物たちに共通
する問題点であった。

 

マーケット・ガーデン作戦において、作戦レベルの指揮官は、空挺作戦を再検討するに
値するに十分な情報を得ていたが、この情報が考慮に値するとは考えなかった。実際、
ドイツ軍が抵抗不能なまでに打ち負かされているという既成観念が、この作戦直前期の
連合軍首脳部の共通理解であったように思われる。つまり、モントゴメリー元帥を含む
高位にある指揮官たちにとって、ドイツ軍は敗北寸前のように思われていたのだ。その
既成観念の結果、複数の理由から、できるだけ迅速に作戦計画を実行したいという過度
の希望がモントゴメリー元帥ら高位にある指揮官たちの胸中に湧きだすこととなったの
である。

 

 以下、次号で、この理由について補足説明したうえで、(2)地形判断のミスについ
て考察してみたい。

 

 

(以下次号)

 

(2012年1月26日配信)

関連ページ

後編
【戦史に見るインテリジェンス活用の失敗と成功(その)1】 連載記事「マーケット・ガーデン作戦はなぜ失敗したのか?」を前・後編にわけて紹介しています。