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前線も銃後もない「軍民一体」の戦い—本土決戦準備の真実 -日本陸軍はなぜ水際撃滅に帰結したのか- Vol.23

time 2012/09/07

B-29

ごあいさつに代えて ~戦場から届いた言葉~
・・・戦争はつねに非人間的であって、使用される手段はその効率性、潜在能力あるいは対敵有害性などによって受容可能とか不可能とか分類することはできない。(中略)戦争手段に対する道義的制約は、国際的な扇動的偽善以外のなにものでもない。これからの戦争は、非人間的で残虐な行為となるであろう。恐るべき攻撃がいかに非人間的で極悪非道であると見なされようと、誰もそうした戦慄すべき攻撃の実行にひるみはしないであろう。・・・
   ドーウェ(イタリア軍人、戦略爆撃を最初に提唱した空軍万能論者)

・・・戦略爆撃は、戦争に勝利する手段として、「現象」上は成功していた。しかし、戦争が主として戦闘員に対しておこなわれてきたという伝統との決別、および都市を爆撃することによる無差別殺戮(さつりく)が引き起こした道義的嫌悪は、戦略爆撃の役割を継続することの是非について、戦後に激しい論議を巻き起こした。・・・
   カーチス・E・ルメイ(アメリカ軍人、第21爆撃集団司令官・少将)

・・・京都は是非とも救うべきだ。古来の文化と伝統とを伝える美しき古都を破壊することは、アメリカの良識と博愛の精神を地におとしめることになる。何よりも、京都への(原爆)投下は、日本人の敵愾心(てきがいしん)をいやが上にも強めるだけだ。・・・
   ヘンリー・スチムソン(アメリカ・共和党の政治家、陸軍長官)

 日本兵法研究会の家村です。
大東亜戦争では、日本に対する大規模な戦略爆撃が行われましたが、戦後、米国側でもその評価は大きく分かれました。この「戦争と道義」という人類に突きつけられた課題は、人間というものが強くもあり、弱くもあるという真実、そして人の魂が時と場合とにより「正善(清浄な霊魂)」にも「邪悪(汚れ穢れた霊魂)」にもなり得るということを明瞭に物語っているのではないでしょうか。

 それでは、本題に入りましょう。今回は大東亜戦争末期、前線も銃後もなく「軍民一体」となって戦い抜こうとした当時の日本国民の「偉業」について紹介いたします。

本土空襲の激化と一般国民の被害増大

 昭和20年の戦局は、もはやこれまでのシナ大陸や太平洋の島嶼での戦闘とは異なり、すでに前線も銃後もない国内戦の様相を呈しており、特に本土に対する空襲が本格化するに及んで、戦争の被害は軍人のみならず広く国民にも及ぶようになった。

 3月10日の東京大空襲は、それまでの軍事施設や工場・港湾などに対する昼間・高高度からの精密爆撃から、「日本国民の抗戦意思の破砕と抵抗力の破壊」を目的とした夜間・低高度からの無差別爆撃へと戦術を転換した最初の爆撃であった。3月9日、サイパン、テニヤン、グアムの基地を発進した米陸軍・第21爆撃集団(司令官 カーチス・E・ルメイ少将)のB29戦略爆撃機・約3百機が、深夜・波状攻撃により焼夷弾1,700トン(約百万発)を投下して、東京下町を一夜のうちに焼き尽くした。これにより、約25万戸の家屋が焼失し、約10万人が死亡、4万人が火傷を受け、約百万人
近い罹災(りさい)者が発生した。

 その後も米第21爆撃集団は、毎回5百機のB29で東京、大阪、神戸、名古屋、横浜といった大都市への焼夷弾爆撃を継続し、6月下旬以降はさらに川崎、四日市などの地方都市まで爆撃して、日本国土の焦土化を図った。

 こうして日常的に敵機による爆撃や機銃掃射にさらされるようになると、国民の勝利に対する信念も揺らぎ始め、士気の低下はどうしても避けられなかった。特に都市部で空襲から逃げまどう住民の多くは、「自分もいつ死ぬかも知れぬ・・・」と暗に考える様になり、自分たちの失敗を棚に上げ、本土決戦を呼号し、穴ばかり掘っている軍人たちへの疑念や、ある種の厭戦気運さえも漂い始めていた。

 しかし、少なくとも表面上、国民は一糸乱れず、精神的な結束が保たれており、反軍・反戦的な言動や敗戦思想は全くと言ってよいほど見られず、また焼け跡や避難先での略奪なども貧民地区に住むごく一部の集団を除き、発生しなかった。東京空襲後の焼け野原で生き残った人々に共通して見られたのは、同情、協力、そして禁欲的な受容であり、空襲を受けなかった地域や隣接県の人々は、学校、寺院、劇場を開放し、家を失った人々に食事と避難場所を無償で提供した。また、公衆浴場を自由に使わせた地域社会もいくつかあった。銀行家は義援金を集め、北海道や青森から貨車40両分の鮮魚と魚の
缶詰が東京に届き、政府は継続的に食糧を配給した。

民有地における陣地構築

 昭和20年に入ると、わが国土では制空・制海権を完全に喪失した状況下で、本土決戦に備えての兵力の展開、軍需品の集積、陣地の構築、部隊の訓練などが実施されつつあったが、やがて作戦と行政、第一線と銃後、戦闘行為と国民生活、戦力と生産などは区別して考えられない事態となってきた。

 政府は、この事態に応じるため、国内の総力をあげて生産と防衛の一体的強化を図る緊急措置、国力および戦力造成のための非常措置などをとってきた。しかし、本土決戦準備が具体的に進められるにしたがい、まず初めに問題となったのは、陣地構築等に関する軍事上の要求と国民の権利との調整であった。

 従来の法律の範囲内では、いかに作戦上の要請があっても、法的には、民有地では穴を掘ることも、木を切ることも、石を動かすこともできなかった。このため、軍は現地住民の自発的な協力により、既成事実を重ねる形で準備を進めていたが、地域が拡大するにともない、速やかに法的根拠を設定することが不可欠になってきた。

 この問題を解決するため、昭和20年3月19日、大東亜戦争に際し築城、設営、その他勅令の定める軍事上の緊要事項を整備する目的で「軍事特別措置法案」が閣議決定され、同年5月5日に施行された。

防空監視体制への国民の協力

 支那事変が勃発した昭和12年に施行された「防空法」により、主婦達によるバケツリレーや家庭防火群活動、公設自動車ポンプの配置などの民間防空体制が整えられてきたが、これらも米軍機による大規模な焼夷弾爆撃の前では全く歯が立たなかった。

 消防、救護、復旧のような民間防空部門が米軍機の猛爆撃にことごとく刀折れ矢尽きる中で、防空監視だけは最後まで計画どおりの機能を立派に完遂した。それは、沿岸や山間に網の目のように張りめぐらされた対空監視哨と、県防空監視隊本部の活動であったが、これらは爆弾と闘い、火炎に襲われつつも、最後の日まで一人も持場を離れず、昼夜不眠不休で淡々とその務めを果たし、軍の防空に寄与した。

 これらに従事していたのは、地方の対空監視哨にあっては、村の若い青年たちであり、県防空監視隊本部にあっては、地元の若い乙女らであった。彼ら、彼女らは村民や市民たちが一人もいなくなっても焼け跡の持場で頑張り、8月15日の終戦の御詔勅の時でさえも、見張り台から下りず、また電話機を耳から離さなかったのであった。

沿岸部における住民避難の実態

 沖縄作戦によって沖縄住民の受けた被害は、死者10万5千人にも上る甚大なものであったが、その大部分は首里主陣地崩壊後、米軍の激烈な砲爆撃下に軍人と住民が混在した島尻地区で生じたものである。本土決戦において敵の上陸が予想される沿岸部に居住する住民の統制ある避難疎開の困難性については、沖縄作戦の教訓を得るまで軍、政府、自治体のいずれも十分理解していなかった。

 昭和20年1月、沖縄及び奄美大島方面の離島の学童や老人・病人などは、避難のための引揚げを完了して鹿児島県内の各地に疎開しており、東京・大阪などの大都市の学童もそれぞれ近隣の府県に引揚げ、疎開しつつあった。沖縄作戦以前における各地方の一般的な方針として、壮年男女の集団引揚げは認めておらず、敵の上陸侵攻が予想される沿岸部の臨戦地帯となる地域でも、壮年男女は断然踏み止まって軍の作戦に協力し、陣地構築・輸送・道路補修等の仕事に当ることになっており、住民も皆その気構えであった。

 しかし、空襲が激しくなり、町が焼かれ、家屋を失うようになると、縁故者の元に疎開(縁故疎開)する住民が続出し始め、都市部や作戦地域では空襲のたびに次々と人口が減っていった。各県ごとの避難疎開計画は未整備であり、住む家を失った者を受け入れる施設も、配給する食糧も無かったのである。

 敵の上陸侵攻が最も予想された鹿児島県や宮崎県では、空襲がある毎に避難民の大群が延々として道路を埋め尽くし、その際は全くの交通麻痺となり、道路が杜絶された。警察の連絡用オートバイも通れず、軍や警察のトラックも、この群衆の中に入り込んだら最後、たちまちこれに飛び乗ってくる民衆に占領されて「避難民運搬車」と化したのであった。

 縁故疎開しない住民は、学童や老人・病人といえども沿岸部の作戦地域に残留しており、こうした人達の心境は「どうせ戦場となって自分達が死ぬなら、家族一緒に死ぬ方が良い。小さい子供や老人だけを生き残らせてどうなるのか」というようなものであった。

 特に共同体意識の強い田舎の村落では、県が行おうとした学童・婦女子・老病者の疎開計画に対して猛烈に反発した。「村長以下、皆が一家討死の覚悟で、女も子供も大人も皆で斬り込み隊を作って敵陣に突撃する。家族友人の屍を乗り越えて突進して村人が皆死ぬ。このほうが壮年男子の村民が全滅して女・子供や老人、病人だけを生き残らされるよりは、はるかにましだ」と真剣に考えていた。つまり、農業や漁業に従事する住民たちは、自分の土地を離れては生き甲斐が無いのであり、皆が最後まで土地にかじりついて運命を共にしようと心に決めていたのであった。

 このため、空襲の被害にあった農村では、大きく深い爆弾の穴だらけの蜂の巣のような田んぼであっても、穴と穴のわずかな隙間に、敵機が来襲する合間を見て細々と稲の苗を植えている農民たちの姿が見られた。これこそが、日本農民の真の姿であった。

国民に対する道義的責任

 空襲は激しくなり、生活は逼迫し、家族・友人らの死も常に身近にあり、戦争は苦しく辛いもので、早く平和な日が来るようにとの思いを抱きながら、多くの国民はなお、軍の作戦準備に献身的な協力を惜しまなかった。

 日本国民の戦意を低下させ、敗戦思想を吹き込むため、米軍は本土上空から盛んに宣伝ビラを撒いた。しかし、国民は皆、これを相手にしなかった。敵の思想謀略ごときで国内が崩れる心配はまったく無く、物資動員も、国民徴用動員も整斉と行われていた。心の中ではどう思おうとも、誰も文句を言わず、反抗もせず、皆が歯を喰いしばって国家の命令に従っていた。これらは、国民精神の教育が徹底されていたことや、特高警察による敵性分子や反国家
分子の取締りなどもさることながら、やはり日本人の生真面目さ、勤勉さなどによるものであろう

 いずれにせよ、過酷な状況下に放置された国民は皆、軍に期待し、すがり付いていた。空襲により国土が焼け野原となり、それでも戦争を継続するという厳しい局面にまで追いつめられた国民のたどりつく精神的な支柱は、結局は「軍」だったのである。

これに応えるべく軍、特に国土・国民と直接結びつく陸軍は、最後まで国民から信頼され、頼もしがられるように、何時も力強い姿を見せ、国民を安心させていなければならなかった。

 このような中で、日本陸軍の歴史の最期を飾る本土決戦を断行する以上、道義的な責任からも、総軍司令官以下の「自己健存思想」の一切を打破し、一兵の存する限りこの国土に侵攻しようとする敵に喰らいつき、何としても背後にある大和民族を護らなければならなかったのである。
 

(以下次号)

(家村和幸)

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