リーダーは、部下たちと「知恵比べ」をしない。(兵頭二十八)

2019年2月6日

松下幸之助さん2008年03月14日 20:02
兵頭二十八
 全能の個人はこの世にいません。夜中の3時にオーバル・オフィスに電話がかかってきたとき、その受話器を掴む「全米最高軍事指揮官(コマンダー・イン・チーフ)」にも、知らないことがいっぱいあるはずなんです。
 たとい大統領を2任期8年間も務めたとしても、なおまだ、分からぬことの方が、分かることの数よりもきっと多いでしょう。
 だからこそ、大統領には、自分を補佐させる部下閣僚を自由に任免する権限が与えられている。政策の足をひっぱるような役人はサクッと馘にできるわけです。
 〈自分ひとりで仕切れる政治の課題なんて、ごく限られているよ〉〈それを自覚できるのが賢者の徳の第一歩だよ〉と、民主主義者のソクラテスは2400年も前に最優秀生徒のプラトンを訓導しようとした。
 ・・・・・・が、若きプラトンは、おのれの学才に自信を持ちすぎ、いかなる分野の専門家と知恵比べをしても負けない全能の個人はかならず国家に一人は居るのだと夢想し続け、けっきょく専制政治の大理論家になってしまう。
 嗚呼、人の理性は有限であります。
 日本も採用しているデモクラシー制度の下で、大衆はどんなリーダーを選べば良いのか? あるいは、政治家志望者は、どんなリーダーを目指すのが妥当なのか。
 ――歴史上、ありえないことがすでに証明されているような、全能に近き者でしょうか?
 これについて、デモクラシーと何の関係もなかった大昔の儒学者が、じつにあっさりと、もう答えを出しているんです。
 彼らは断定しました。「知(者)」とは、「誰にそれを任せたら良いかが分かる(者)」とイコールだろう、と。
 そのような知者こそが、天下を安んずる統治者になってもいい資格の持ち主なんだ、と。
 それ以上の知者なんて、いないんだ、と。
 ただしそんな知者は、単にidealに想定できるだけで、リアル世界にはあり得ないものなんだ・・・・・・とも。
 アメリカ大統領や日本国首相や東京都知事や民主党代表は、自分自身では、一流大学法学部卒の試験エリート役人たちと論争できなくとも良いのです。
 ロクに学識や経験はなくったって良い。
 税制改革から中小企業金融から核戦略から海難審査から在日/部落特権から対外宣伝からスポーツ振興までのオールラウンドの専門家である必要などみじんもありません。
 〈大名が部下と智恵くらべをするなど、もってのほかです〉と、荻生徂徠が、わかりやすく切論しています。たとえば、複数の部下から上がってきた意見書を読み、これはダメだとかこれは間違っているとか論駁をするのは、もう、殿様が部下と知恵比べをして誇ろうという、まことに愚かしい自我である。
 そうではなく、最適の器量を有していそうな部下を探し、品定めし、一人を選んで、その問題をその男に何年か任せてみて、天下のウケをみて、どうにもダメなようだったら担任者を取り替える。それが、殿様にできる最良の仕事なのである――。
 松下幸之助などは、さすがにここの勘所は、わかっていたようです。
 この部下探し、かならずボスが直接インタビューして、心証で決めるしかありません。
 自薦・他薦の何人かに口頭試問してみて、その反応から「こいつが良さそうだ」と決める。「前からのお友達」や「義理筋からの指定者」などに任せてはいけません。
 もし、何年か経って、こうした配下の選定を誤ったなとリーダーが覚ったら、その部下を更迭するのもまたリーダーの責任であります。その更迭が遅れすぎた場合には、リーダーが天下から批判されるのは当然の話だ。
 古い儒教世界では、リーダーが部下の人事・人選を間違った結果、天下をうまく治められなかった場合、その「不知・非知」は、弑逆や革命によって修正されるしかありませんでした。
 しかし「行政官殺し/上司殺し」がちょくちょく起っては、やはり天下が安泰とは逆の方向に行ってしまいますよね。
 そこで、西洋と日本では、デモクラシーが、この無理・無駄を合理化しようとしてきたのです。
 すなわち、「行政リーダーの組織人事が不手際であるがゆえに天下が安泰になっていない」と有権者が感じたなら、次の選挙で、そのリーダーを落選させ、もっと有能な配下を知っている別なリーダー候補と取り替えてしまえる。そんな制度に、したのです。
 選挙で選ばれている代議士である大臣(たとえば防衛大臣)が、部下の役人機構や職員(たとえば艦長)の起した不祥事の責任をかぶって自分から辞任する必要などありません。
 ちなみに艦で起きたどんな事故の責任も、常に、例外なく、艦長ただ一人にのみあります。艦長がそのとき意識不明の危篤状態であったというのでもない限り、副長や航海長以下には、艦長の万分の一の責任もありはしません。艦とは〈独裁国家〉なのであり、艦長には、部下乗組員に対して、たとえば「おまえが浸水区画の内側へに行き、内側から扉をロックしろ」と命ずる「生殺与奪」の権限があるのです。ズバリ、「死」を命ずることができる。その代わり、どんなに不運な事故であったとしても、さいごの全責任は、あくまで艦長が取るというのが、海のシキタリです。
 なお、当該大臣を任命した内閣総理大臣が、その事故の原因がその閣僚個人にあると考える場合は話が別で、その場合は首相によって免職されるでしょう。
 一般には、もし有権者が、「某大臣は、頼るべき部下の人事を間違っている」「しかもそれによって天下が乱れている」と判断するならば、次の選挙でその大臣は落選するでしょう。それが代議士の責任のすべてでしょう。
 選挙で選ばれている代議士である大臣や、選挙で選ばれている知事が為すべきことは、おのれの所轄官衙内で不祥事が起きたならば、ただちに適当に部下や職員を罰し、クビにし、待命=予備役に編入し、告訴することです。
 ところが、日本の法律と政府の慣行は、代議士である大臣が、部下の役人・職員のクビを、簡単に切れないようになっている。(知事には、比較的に強い人事権がありますけれども・・・・・・。)
 ここが、米国政体と日本政体の、決定的な違いです。日本の現行政体では、大臣に部下の人事を自由にする権限が与えられない。米国では、長官や局長や部長について、ほしいままに人事をおこなうことができる。だからこそ、米国では、リーダーが「知」を最大限に試せるのだといえます。
 現下の日本では、内閣総理大臣や国務大臣が、ある問題について「こいつにまかせるのが一番だ」と見込んだ部下を抜擢しようとするのがそもそも不自由ですし、なんとか抜擢をしてみても、こんどは、その部下に対し、他の同僚や上司の役人・職員がサボタージュ活動をするのを、機動的な人事権や懲罰権の強制によって止める方途が無いときています。
 つまりわが国では、国政のリーダーは「知」を発揮しようがありません。公務員の総意(=公務員試験の問題を出題する古手の大学教授よりも低い知恵)しか、動員することはできないようになっているのです。
 これでは民間企業よりも知恵が回らぬ国家になってしまうのはあたりまえではないでしょうか。
「兵頭二十八の放送形式」より転載