脚気と日露戦争--脚気と日本陸軍

2020年4月21日

From:荒木肇
件名:脚気と日露戦争--脚気と日本陸軍
2012年(平成24年)8月22日(水)
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□終戦か敗戦か、停戦か?
 ずうっと誰もが「終戦」と言ってきました。私も、どうせいつも
の言葉ごまかしだろう。占領軍を進駐軍と言うような体質だから、
「敗戦記念日」と言えないのだろうと思ってきました。しかし、
よく考えると終戦なら対ソ連への「自衛戦闘」もなかったわけだし、
まだ「武装解除」もされた訳ではないし、つじつまが合わないなと
考えてもいたのです。そうしたら、敬愛する宇都参院議員が次の
ようなことを言っていました。
 国際法の面から考えると、「宣戦布告」によって戦時になり、
「平和条約」の締結によって戦争は終わります。だから、ポツダム
宣言の受諾を決めて(14日)、陛下の命令で全軍隊に戦闘をやめる
ように命じた15日は「停戦の日」。では、戦に負けたのは、
連合軍総司令官たるマッカーサーに、政府代表が降伏文書を渡した
9月2日になります。それで、戦争が完全に終わったのは1951
(昭和26)年4月28日のサンフランシスコ平和条約の締結の日
ですね。
 うむ。これからは私も「停戦の日」にするかと納得した言葉でした。
 べー様、私の説明で長い間の疑問が氷解されたとのこと。
「ダイイ」と「ダイサ」が「ダイキカンシ」や「グンイダイカン」の
存在からということを知って下さったとのこと、ありがとうございます。
テレビやマスコミでは、すでに海軍タイイ、タイサと言っております。
いつか、ダと濁ったことも忘れられてしまうのではないでしょうか。
ありがとうございました。
 T山様、桂に行かれたとか、楽しまれてこられたようで嬉しく
存じます。今週末は富士の総合火力演習です。すでに昨日(19日)
は富士教導団による予行演習が行われ、薄曇りのもとに、離島防衛の
想定も設定されているとのこと。また、新型の10式戦車の中隊も
登場するとのことです。ご指摘の通り、竹島も魚釣島(尖閣諸島)も
国境紛争になっています。危機感に満ちた言論もありますが、一方
冷静になって話し合いをなどというテレビの識者と称する輩もおり
ます。国境の問題は本来、感情的なものでありましょう。どこやら
から金をもらっているのではないかと疑っております(笑)。
 オスプレイの問題も然り。どうも悪質な世論操作に踊る人もいる
ようで心配です。
 それでは、今回は「脚気と日露戦」です。
▼日本兵は酒を飲んで突撃する
 猛烈な要塞の堡塁から撃ちだされる機関砲と機関銃弾。それでも
日本歩兵は突進した。中隊長が刀をわきに構える。大隊長に注目する。
大隊長が突撃指揮官。当時の歩兵操典では突撃単位は大隊である。
横一線に広がって、兵と兵との間隔はおよそ85センチ、一個中隊の
担当正面は100メートルである。中隊長たちは大隊長に注目している。
援護の野砲弾がロシア軍堡塁の周りで炸裂した。大隊の伝令が時計を
片手に注目する。
「あと3発!」。大隊長は立ち上がった。刀が大きく前に降りおろ
される。「ヤクシンキョリ、50メートル。マエニ-、ススメ!」、
中隊長たちも立ち上がり、同じ号令をかけた。小隊長たちも軍刀を
前に構える。切っ先は敵陣を指している。兵卒は着剣した小銃をかか
えて走りだす。ところが、驚くほどその速さは遅い。その足元が
ふらついているのだ。ふらつくばかりか、突進は左右に乱れ、中には
4、5歩進んだところで膝をついてしまう者もいる始末だ。
 下士も上等兵も、将校も声をからしている。「マエエー!マエ
エー!」、その彼らもまた、足元がおぼつかない。外国特派員は
その様子を見て、仕方のないことだとうなずいた。西欧からの観戦
武官も、みな顔を見合わせた。
『酒を飲んでいるのだ。恐怖心を紛らわせるために酔っぱらって
突撃するんだ』
 場所は旅順の要塞戦である。乃木希典大将の率いる第3軍の将兵は、
脚気に悩まされていた。日清戦後にふつうの兵営では、現場の軍医の
判断で麦飯を食べるのが当たり前になった。おかげで脚気は再び
消えたように見えた。ところが、日露戦争が始まり、戦場で白米だけ
が支給されるようになると、とたんに脚気は大流行し始めた。
▼日露戦争の衛生態勢
 こうした誤解は外国人の記録にはよく見られる。脚気による下肢の
むくみや、全身の倦怠感、脚力の低下などは酒のせいによると思われ
てしまった。ある観戦武官に本国に『あれほどの猛威をふるう要塞に
銃剣突撃をしなければならない。まともな人間なら酒で酔わなければ
とても無理だろう』という観察報告まで出した。将来、わが軍も
同じような事態に直面した時、果たして素面(しらふ)でできる
か・・・という危機感をもったからだ。
 もっとも、彼ら麦食の欧米人には脚気という米食をする地域の
「風土病」は知られていなかった。インドネシアやタイ、インドと
いったところでだけ発生する病気だったからだ。酒に酔った日本兵
という誤解は、いつか解消されてはいったけれど、こうした記録は
日露戦争の記録には丁寧に隠されている。勇ましい銃剣突撃、果敢
な白兵戦ばかりが印象付けられているが、その実態はずっと隠され
てきているのだ。
 では、制度的に当時、戦時の陸軍衛生部はどうなっていたのか。
多少、面倒だろうが、おつきあい願いたい。
1、 各部隊には隊付軍医(大隊に1~2名)、看護長(下士)、
看護手(兵)があり、傷病者の収容と救護を行う。高級軍医と
いわれた聯隊、もしくは輜重・工兵大隊付の佐官級もしくは大尉
相当官の軍医は戦線のやや後方に仮繃帯所(かりほうたいじょ)を
開設する。次級軍医といわれた尉官級軍医は戦線に立つ。
2、 師団には繃帯所が置かれる。衛生隊があり、負傷者の捜索や
運搬のために担架中隊がある。
3、 野戦病院は師団に4個あり(各歩兵聯隊に1つ)、戦線から
じかに、もしくは繃帯所から傷病者を収容する。また、師団が移動
せず、長く同じ場所に駐留する時には、主に病者のために「舎営
病院」を開設することがある。
 これらを「野戦衛生機関」といって、師団軍医部長(中佐級)の
運用下にあり、業務の指揮監督権も部長がもつ。
 兵站(へいたん)衛生機関とは、兵站軍医部長が管轄する組織で
ある。兵站には衛生予備員という人材のプールがあった。野戦病院
を引きついだり、そのさらに後方に「定立病院」を開設する。
また、「患者集合所」、「患者療養所」を置くこともある。
1、 兵站病院は定立病院の患者を引きつぎ、またはその後方に開設する。
2、 患者輸送部は、傷病者の輸送を任務とする。主に師団野戦病院
と定立病院の間の患者輸送を受けもつ。「患者集合所」や「患者宿
泊所」を設けるときもある。
 以上は兵站軍医部長の管轄である。
 さらに当時の用語を書いておく。師団の戦闘地域を野戦地区といい、
野戦衛生機関は主にこの師団内の区域で活動する。数個師団で構成
される「軍野戦地区」の後方は、その軍の兵站地区といい、兵站監
(兵科少将級)と兵站軍医部長(軍医少将級)がその業務を指揮監督
する。そして、野戦地区と兵站地区の両方を統括するのは軍司令官と
軍軍医部長だった。
▼森の第2軍と脚気
 日露戦争各軍の軍医部長は次の通り。
 第1軍(黒木為禎大将)は谷口謙軍医監、のち菊池常三郎軍医監。
 第2軍(奥 保鞏大将)は森林太郎軍医監
 第3軍(乃木希典大将)は落合泰蔵軍医監
 第4軍(野津道貫大将)は藤田嗣章軍医監
となっている。これらは誰もがのちに軍医総監になる人々である。
 さて、この人々の下僚には師団軍医部長たちがいる。山下政三氏
によれば、第1師団の鶴田軍医部長は第3師団の横井軍医部長と
いっしょに、森軍軍医部長に『麦飯給与』を進言したという(明治
37年4月8日)。気になる結果だが、森は何の返事もしなかった。
この出所は鶴田の『従軍日誌』だそうだ。私はそれを見ていないの
で、なんとも言い難いが、事実だとすれば森の『戦犯説』も強く
なるばかりである。
 ただし、「ノー」という返事があったわけではない。とすると、
見て見ぬふりをするぞという森軍医監の意思表示かもしれない。
 陸軍の戦時兵食は、またまた精白米1日6合だった。ときの陸軍
大臣は麦飯大好きな寺内正毅であり、麦飯がいいという高級幹部も
多く、断固麦飯だと主張する軍医部長たちも多かった。それである
のに、勅令で決まった「給与令」は曲げられなかった。
 それというのは、軍隊に入り、野戦に送られ、苦労する毎日を
過ごす兵卒たちに、せめて「白米」を食べさせてあげたいという
気持ちが心の底にはみな持っていたからではないか。
 私たちは飽食の時代に生きている。餓死者や栄養失調による死者
などめったに聞くこともない。ところが、私が中高生だった昭和40年
代でも、白米は正月と盆だけのご馳走だったという地域が確かにわが
国にあった。100年以上の昔はどうか。以前書いたように、大正
末年でも、大村聯隊の兵卒も多くは家庭で麦、雑穀を食べていたのだ。
兵役にとられ、苦労をする代償の一つは『山盛りの銀飯』であった
ことは疑えない。
 だから、森はわざと返事をしなかったのではないか。師団の全権
をもつ軍医部長限りで実行せよ。軍軍医部は知らないふりをするよ
という気持ちだったのではないか。資料の裏付けはないが、森の
気持ちをそう推しはかろうと思う。
 森は全般方針として、『脚気は病原物の所在ははっきりしないが、
伝染経路も分からない』と書いている(第2軍内科方鍼(ママ)と
いう通達の中)。明治37年4月13日のことである。2人の麦飯
採用上申から5日後のことになる。
 ということは、脚気伝染病説をまだ捨て切れていない。このこと
は当然としよう。ビタミンは発見されてない。問題は、対症療法
しか書いていないことだ。しかも、麦飯の「む」も書いていない。
せめて現場の師団以下の軍医たちが麦飯を支給することだけは黙認
しようということではないか。
▼脚気出現
 第2軍というと勇将奥大将のもとに、南山の戦闘(5月25日)を
勝ち抜いたことで知られている。ところが、その戦闘より前にすでに
脚気患者は2名、兵站軍医部の患者療養所に送ったという記録がある。
 6月24日、森は各師団軍医部長にあてて、『早期診療ニ向テ力ヲ
用ヒシメ以テ其ノ蔓延ヲ防止スルコトヲ期セラルベシ』と訓示した。
脚気はできるだけ早く診断し後送せよということだ。6月末には患者
は193名にもなった。7月末には321名にものぼった。8月に
なると、新患が946名にもなり月末統計では1267名にもなる。
ここで、森の報告書には『麦飯の給与は8月中旬になって一般に実施
された。しかし、第3師団ではその実施が普及されなかった形跡が
ある』とある。と、すれば麦飯給与が行われたということになるが、
当時の部隊にいた下士の記録では、白米しか支給されていない。
 9月には新患が859名、合計患者総数2126名にもなった。
戦場につきものの伝染病は赤痢と腸チフスである。ところが、それは
それぞれ300名あまりと100名あまりに過ぎない。そして、
12月には第2軍の脚気患者は5070名となってしまった。
 そして、明治38(1905)年2月には、『麦及雑穀ノ供給ニ
尽力スルヲ要ス』と、とうとう森も部下に訓示をしなければならなく
なった。
 手元に従軍者の手記がある。兵器関係の前線にいない部隊の曹長
が書いた。兵站部の倉庫に明治37(1904)年8月11日に
3日分の食料の受給量が書いてある。廠員14名、衛兵15名、
倉庫衛兵10名、合計将校下士卒39名の数字だった。
 精米7斗2合(約105キロ)、牛肉缶詰3貫100匁
(11.1同)、エキス(粉末醤油のこと)585匁(2200グ
ラム)、福神漬け1貫170匁(4400グラム)、牛テールの
乾物2貫340匁(8800グラム)、砂糖351匁(1320
グラム)、茶117匁(440グラム)となっている。
 別の日には、粉味噌、ダイコンの切干、塩乾物としてイワシの
干物が支給されている。いずれも、ビタミンと縁もゆかりもない
ような副食物でしかない。
 また、ある軍医の記録によると、37年8月の野戦病院の副食が
記録されている。朝はわかめ味噌汁、葱の味噌汁、干ぴょうの
味噌汁と梅干、あるいは味噌漬ダイコン、福神漬けである。昼は
干ぴょうとカツオ節、干タラ、切り昆布の煮つけ、麩とねぎの
煮つけ、芋、缶詰の鮭、牛肉。夜のおかずは、芋と麩の煮つけ、
カツオ節に干ぴょうの煮つけ、葱、卵、イワシの煮干し、わかめ
などでしかない。これが傷病者に与えられていたのだ。
 そして、最前線の給与はというと、『萬朝報』によると、朝は
奈良漬、梅干し2個、たくあん漬けのみ。昼は干しエビ、千切り
大根に牛肉少々煮込み、卵一個と千切り大根、そして夕食のおかず
は千切り大根と牛肉缶詰の煮たもの(ただし、肉に会えるのは親の
カタキにめぐり合うことより難しいとある)、馬鈴薯に千切り大根。
 これらのビタミン欠乏食を、白米たっぷりとともに摂っていたの
である。
▼戦後の総括が行われる
 戦闘の度に報告されるおびただしい戦死傷者、しかし、それは
多くの国民によって納得された。あの乃木将軍の出した要塞攻撃の
犠牲ですら、表立った非難はされなかった。しかし、脚気の死者に
ついて世論は怒った。
 山下氏の調査によれば、戦地での入院患者数は25万1185人
である。戦闘による死傷者は約20万人だから、それよりも多い。
入院患者の半数近くは脚気である。約11万人が脚気。在隊の脚気
患者は約14万人だった。そして、死者の総数はなんと『脚気に
因する死者は2万7800余名』という報道がある。
 そして、原因究明が行われた。
(以下次号)
(荒木肇)
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● 著者略歴
荒木肇(あらき・はじめ)
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜市立学校教員、
情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員等を歴任。退職後、生涯学習研
究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務め
ながら、陸上自衛隊に関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受け
る。年間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。
◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」「自衛隊就職ガイ
ド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日本陸軍と自衛隊」「子供にも嫌わ
れる先生」「東日本大震災と自衛隊」
(いずれも並木書房 http://www.namiki-shobo.co.jp/ )
「日本人はどのようにして軍隊をつくったのか」
(出窓社 http://www.demadosha.co.jp/
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著者:荒木肇
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