日清戦争前後の食事--脚気と日本陸軍(荒木肇)

2019年2月6日

日清戦争 金州城追撃の図はじめに
 日清戦争は「まことに小さな国であった」近代日本が初めて行った対外戦争でした。欧米人はもちろんのこと、日本人ですらわが国が勝つとは思ってもいなかったのです。そして、世界中が、何よりわが先人たちも驚いたことに、日本は清帝国を破ってしまった。戦闘のほとんどは危なげなく勝ち進んだといっていいでしょう。戦争につきものの錯誤や失敗も多く見られましたが、まずまず日本陸海軍はその鍛えられた力を発揮したといえます。
 ところが、病気による被害、とりわけ脚気による死亡がたいへん多かったのです。それまで、陸軍の現場の医官たちが「麦との混食」でほとんど絶滅させたかと見えた脚気が戦場でまた猛威をふるった結果でした。
日清戦争の脚気被
 海軍が麦食に踏みきったのも、日清戦争の前段階の話である。日清の対立があった。清国が朝鮮支配の強化を目指した結果、行われた。そのことは常識になっている。当時の清国は軍備をどんどん充実させ、とりわけ海軍力を強化していた。
 そうした中で起きたのが1882(明治15)年に起きた壬午(じんご)軍乱である。このとき、済物浦(さいもっぽ・仁川湾)に出動したのはわが軍艦、金剛、日進、比叡、清輝だった。清国軍艦と40日あまりも睨みあったが、そのとき艦内には脚気患者があふれていた。金剛では乗員の3人に1人が立つこともできなかった。戦闘力はまさに脚気によって奪われていたのだ。
 これはその頃の海軍が、食事の金銭支給時代だったことによるらしい。海軍史によれば、1883(明治15)年まで、海軍の艦船では食費を現金でわたしていたという。それぞれ、下士兵卒は勝手に食物を買い入れていた。士官は士官で、食卓料という補助を受け、士官室や士官次室ごとに食材を共同購入していたのだった。
 乗り組み中は日額18銭、陸地在勤者は同15銭、航海運転中は同30銭、外国航海中は同36銭となっていた。1日18銭のところを10銭くらいに切りつめて貯金し、家へ送金するのが当たり前だったという。白米を腹いっぱい食べて、漬物、味噌汁という塩からい食事。まさにビタミン欠乏食である。この結果、士官以上にはまず脚気は発生しなかったが、下士卒では患者がいつもいた。
 そこへ登場したのが、現金支給をやめて強制的に麦を食べさせた海軍の食餌療法だった。しかも、脚気患者はどんどん減った。同じように陸軍でも麦飯を部隊の現場が採用し、ほぼ脚気がなくなったことは前回でも書いた。
 ところが、戦争が始まると、陸軍部隊では脚気が大流行し始めた。さらに「台湾の領収」以後の平定戦で患者が続出した。
 教科書でもあまりふれられていないのが日清戦争である。日清両帝国による朝鮮の支配権争奪とか、あるいはわが国のアジア大陸への進出、侵略の第一段階だなどという解釈だけが先行して、わが国の学者たちもそれで済ましていることが多い。ここでは、清国陸軍との戦時の戦闘を行わなかった台湾平定部隊の話と森鴎外のことを書いておきたい。
台湾領収部隊の苦闘と森鴎外
 1895(明治28)年4月の日清講和条約の締結、5月8日には批准書の交換が行われた。台湾はその周辺諸島とともに国際法上、わが国の領土であることが確定した。10日には海軍大将樺山資紀(かばやま・すけのり)が台湾総督に任じられた。18日には近衛師団と海軍常備艦隊が総督の指揮下に入った。近衛師団の第1陣は5月22日、大連湾から台湾へ向かう。常備艦隊の一部も長崎を出港した。
 安易に考えていた政府は驚いた。国際法のこともよく知らない現地の清国軍や、地方の豪族、さらには一般の民衆まで、日本の支配に対して頑強な抵抗を始めたのである。そうして、7月の下旬に混成第4旅団が編成され、近衛師団とともに厳しい戦いが始まる。8月末にようやく北半分を平定したところで、さらに9月2日、遼東半島で凱旋帰国準備中の第2師団も台湾へ進出する。そして、全土を平定したのは、ようやく10月下旬になってからのことで
あった。
 さて、このとき、森鴎外は6月3日に基隆(きいるん)に上陸、台湾総督府軍医部長を務め、9月12日まで、その職にとどまっているのである。ちなみに鴎外の戦時補職は第2軍兵站軍医部長だった。大学の同期生だった小池正直は第1軍兵站軍医部長(戦時)であり、その新補職は占領地総督部軍医部長である。2人はほぼ同じ扱いを受けていたといっていいだろう。
 1894(明治27)年6月10日、「戦時衛生勤務令」が定められた。制度に興味のある方のために説明しておこう。まず、トップは平時職では「陸軍省医務局長」を務める軍医がつく「野戦衛生長官」である。この長官の下には軍軍医部長(少将相当官)がいる。ここでいう軍は師団が2つ以上で編合された野戦軍である。日清戦争では2つの野戦ナンバー軍が編成された。第1軍と第2軍である。
 軍の下にある師団にも軍医部長(大佐相当官)がいる。師団軍医部長の下には衛生隊(患者や負傷者の収容や輸送にあたる)、隊属衛生隊(各部隊に所属する衛生兵の部隊)と野戦病院がある。なお、この野戦病院というのは建物があるのでは・・・という誤解がされるが、単に部隊名でしかない。人(軍医や看護下士兵卒)と資材があるだけである。
 また、兵站(へいたん)にも軍医部長というポストがある。兵站司令部付衛生部、兵站病院、衛生予備廠、患者輸送部、鉄道輸送、水路輸送そして衛生予備員などは、この隷下に入る。鴎外森林太郎が命じられたのは、中路兵站軍医部長だった。中路というのは釜山(プサン)から京城(ソウル)へ結ぶ道路をいう。この区間の兵站線の維持をあずかるのが中路兵站監であり、その仕事は衛生管理や、戦傷病者の輸送、兵站病院や戦時定立病院(予備員などを集めてつくる)での治療や、衛生材料の補給などをおこなう。
 おととし「坂の上の雲」がNHKで放送されたが、正岡子規が森鴎外と出会う場面があった。またまたあり得ないことをと思わず叫ぶようなシーンだった。文芸作品の原作者が映像化をいやがるのは、こういうことがしばしばあるからだろう。兵站軍医部長は周りに下僚も連れずにぶらぶらしているような身分の人ではない。あの作品はとにかく登場人物を、やたらに出会わせようとした。鎮遠の艦内を見物する士官(真之)と下士、それに鎮守府参謀長(東郷)などもふつうではあり得ない。
『国民新聞』8月3日、「1日の収容患者170人」
「7月11日より22日に至る12日間に、基隆兵站病院のみに収容したる患者総数は2147人にして、内全治446死亡275事故退院21後送1405にして、結局一日の収容患者170強に及べりと(国民新聞)」
「目下台湾にては脚気、赤痢、風土病等大に流行し、医師1名にて多きは400余名、少なきは140~50名の患者を受け持ち・・・(日本)」
 石黒野戦衛生長官(戦時補職)には次々と実態が報告されてきていた。6月から病人が目立ち始め、8月には兵員の半数が病者になっていたという。
 では、正確な数字はどれくらいか。実はこれが不明なのである。私の手元には陸軍省が発行した「日清戦争実記」があるが、これも実態とはずいぶん違うようだ。陸軍省医務局が発行した『陸軍衛生事績』を山下氏は採用している。ただし、この数字も、『専ラ入院患者ノ数ヲ取ッテ、在隊患者ノ数ハ省イタ』とあるので、やや少なめであろう。
 戦死977柱、戦傷3699(うち死亡293)名、総患者28万4526人、総病死2万159であるという。戦死傷が4600人あまり(うち1270人が死亡)、病者が28万人以上で、うち死者が2万人。
 入院患者数の病名別統計をみてみよう。脚気3万126(うち死者1860人)、赤痢1万1164(同1611人)、マラリア1万511(同542人)、コレラ8481(同5211人)、腸チフス3805(同1125人)がワースト5記録である。
脚気の原因は戦地における白米支給だった
 陸軍省医務局がまとめた統計を使ってみよう。患者全部のうち15%、入院患者の25%、戦傷の11倍が脚気。ふつうの死亡率が1~2%なのに、朝鮮では発生率が12.5%、死亡率が10.7%。これは信じられない死亡率である。患者1665人の中で死んでしまった人が142人もいる。びっくりさせられるのが台湾で、患者数が2万1087人、発生率が100%をこえてしまう。しかも、死亡者は2104人。ここで戦死者は284人でしかない。
 この時代、ビタミンというものの存在は、まったく知られていなかった。したがって、予防措置がどうだったとか、責任者探しをする、能力を評価するというのはあまり意味がない。しかし、当時の人々の認識や、彼らなりの考え方を知っておくことは大切である。いま、われわれも後世から見たら、見当違いの手をさまざま打っているに違いない。
 1894(明治27)年7月、「戦時陸軍給与規則」が公布される。
通常兵食
  精米6合
  副食物
1、鳥獣魚肉類40匁(150グラム)或ハ塩肉類20匁(75グラム)、乾肉類30匁(112.5グラム)
2、野菜類40匁(150グラム)或ハ乾物類15匁(56.25グラム)
3、漬物類15匁或ハ梅干12匁(45グラム)或ハ食塩3匁(11.25グラム)
4、調理用醤油味噌等ハ現費消高
 現在、これを見ても栄養学的にもよく出来ているそうだ。この通り実施されていれば、決して脚気は流行らなかったはず・・・らしい。ということは、これが実際に行われていなかったのである。その理由とは、山下氏は石黒野戦衛生長官の「白米至上主義」からだという。白米は栄養的にすばらしく、これを腹いっぱい食べていれば、おかずは特に必要としないというような主張である。上がこれでは、下がおかずについて考えることはあまりなくなるだろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)