軍事情報特別企画  麦と脚気--陸軍兵食について

2020年4月21日

From:荒木肇
2012年(平成24年)7月25日(水)
□お便りありがとうございました。
 五反田猫様、いつもご感想やご教示ありがたく拝読しています。
さて、陸上自衛隊の普通科中隊でも員数検査があり(正式な名称は
こんど聞いてみます)、一度、その場に出くわして、木製のシャモジ
からブッシュの伐開用のナタ、テントの棒くい、各種ロープなど
など数百品目にわたる保管物資に驚きました。昔の陸軍でも、
小銃中隊には被服係や陣営具係といった専門の下士官がいて、
物品管理を行っていました。
 員数主義と悪くいわれます。ほんとかうそか、軍靴の半分が
なくなり、そのとき検査になった。ただちに残っている靴を上下に
引き裂いて、上半分の修理待機、下半分の同様として処理した・・・
とか、いろいろいわれています。中小企業とはよくいわれたもので、
人員規模なども150人あまりで似ているかも。また、中隊は
それぞれの伝統や歴史をもち、個性的であったことなど、いまの
陸自でもよく似ています。
□はじめに-陸軍の白米支給
 べー様、お便りありがとうございます。森鴎外と脚気のことまで
よくお調べで感服しました。ご指摘の通り、日清戦争、日露戦争
では陸軍は戦地では白米支給を続けていたのです。そのあたり、
いくつかのメモをもっております。ノモンハン前夜の状況のうち
でも、後方を支えた糧食補給やその他の物資輸送もふくめた話題を
出しておきましょう。
 そうした中で、いささか脚気についてもご説明するつもりです。
 私が子供のころには、健康診断に膝をたたくという検査が、
まだありました。椅子に座らせて、足裏を床につけさせない。足を
ぶらぶらにさせる。そこへゴムでできた柄つきのトンカチのような
ものでひざの下を叩きます。ピクンと反応すれば異状はない。
反射的に動かなければ、脚気が疑われるというものでした。
 脚気は、現在では発症がほとんどみられないため、忘れられている
病気の一つです。ところが、少し前まで、脚気は原因不明の恐ろしい
病気でした。わが国ではすでに平安時代に「かくけ」、あるいは
「あしのけ」といわれて記録に出てきます。
 江戸時代には、「江戸わずらい」として有名でした。地方から
江戸に出てきた人がだんだんと元気をなくしてしまう。足がむくみ
始め、すぐに息切れを起こすようになる。最後には起き上がること
すらできなくなり、脚気衝心(かっけ・しょうしん)といわれる
心臓マヒを起こす。その特徴は田舎で暮らす人には見られなかった
ということです。そこで江戸期の人々は、都会の空気の悪さが原因
ではないかなどと考えていました。
 ところが、脚気には麦飯が効くということを知っている人がいた
のです。それは漢方医学者の遠田澄庵(とおだ・ちょうあん)という
人でした。明治の初めまで活躍した人ですが、明治維新政府の西洋
かぶれのために陽の目を見なかった米飯原因説の主張者でした。
 伝染病説をとなえたのは西洋からきた医師たちです。このころ、
ちょうどヨーロッパでは細菌学が注目を集めていたころでした。
明治陸軍の衛生界のエリートで、ドイツに留学した森鴎外こと陸軍
軍医森林太郎が細菌説をとったのも当然の成り行きです。
 主流になった細菌説に反対したのは、ごく少数の「栄養障害」を
唱える人たちでした。有名な高木兼寛(たかぎ・かねひろ)海軍
軍医もその1人です。ただし、当時の医学水準の限界から(つまり、
ビタミンが知られていなかった)、高木も和食にはたんぱく質が
少なく、炭水化物が多いからそのバランスの悪さが脚気をもたらす
という仮説を立てていました。
▼先覚者は陸軍軍医
 海軍は高木の主張をみとめ、はやばやと支給する食事にたんぱく質
を増やし、パンを支給し始めました。西洋風の食事に切り替えていった
のです。パンが不評であると、麦を主食に混ぜるようにしました。
挽き割り麦を5割も混ぜた米麦食です。すると脚気は激減。これに
よって高木は自説である『たんぱく質を多くとらせ炭水化物を減らす。
つまり両者の比率が問題だ』という意見を学会に発表します。
ところが、これが猛反対に出会います。
 当時の栄養学からみれば高木の説はあまりに荒唐無稽。しかも、
いささか乱暴な論理の運びがあり、東京帝大医学部でも陸軍軍医の
世界からも批判を浴びてしまいます。有名なお雇い教師ベルツも
否定側に立ちました。しかし、それで高木の名誉が傷つけられるわけ
ではありません。副食物を豊かにする、麦飯を食べさせる、その結果、
海軍に脚気はほぼ絶滅するといった事実が残りました。
 では、陸軍ではどうだったか? 実は高木より早く、この栄養
バランスを重視した軍医がいました。小池正直(こいけ・まさなお)
といいます。小池は「兵食改良」について1883(明治15)年
8月に『大日本兵卒食料改正意見草案』を提出しました。小池は
前年に森林太郎、菊池常三郎、賀古鶴所(かこ・つるど)などと
いった、いずれ軍医総監になる面々といっしょに東京帝大の医学部を
卒業し、大阪陸軍病院治療科に配属されていた小壮軍医です。
 小池の論文の要点は次の通りです。
『万国普遍の大則からみれば、人は1日に少なくとも120グラム
のたんぱく質と420グラムの無窒素物(炭水化物と脂肪)をとる
必要がある。配合では、窒素(たんぱく質)と炭素(炭水化物)の
比例(1:13ないしは1:15)、もしくはたんぱく質と無窒素物
の比例(1:4ないし5)を一定にしなければならない。英仏独墺米
の各国軍の兵卒のたんぱく質の量をみると、120~160グラム
になっている』
 そして、わが国の兵食について述べます。
『米、魚(牛肉)、野菜、味噌、醤油である。これまでの規定では
1日精米6合、菜代が6銭であるから、米が主で他はすべて副食で
ある。米の分析表をみると、精米6合(900グラム)にはたんぱく質
63グラム、無窒素物は703グラムあまり。その比例は1:11
ほどになる。無窒素物のうち脂肪はわずかに4.59グラム。
脂肪は0.65%にしかすぎない。このように精米はでんぷんが過剰、
脂肪が不足、たんぱく質が最も不足している』
 さらに大阪聯隊の兵食の実情について筆を伸ばしました。
『たんぱく質の不足を副食でおぎなうなら、菜代6銭でたんぱく質
67グラムを確保できるか。魚のたんぱく質は13.7%でたいへん
多いが、大阪聯隊の炊事代価をみるとほんとうの副食費は4銭強で
あり、それで買える魚は20匁(20もんめとは75グラム)でしか
なく、とても足りない』
 パン食の採用については反対意見です。
『米の脂肪とたんぱく質の不足については、魚と植物でおぎなう。
牛肉は牧畜業が盛んでないし、都会や開港地のほかでは入手しにくい。
魚だけでは不足なので、廉価なとうふを使うのはどうだろうか。
精米900、魚200、とうふ500(いずれもグラム)という割合
を提案したい』
 高木兼寛の盛名がある現在では知られていませんが、高木が食事の
成分を考えて改良意見を発表するのは、この翌年、すなわち小池論文
の6ヶ月後くらいです。むしろ、陸軍軍医界の方が先進的でした。
問題は、この提言を陸軍上層部が無視したことです。その理由は
やはり、兵食は白米に限る。麦飯は下等な食事という偏見があった
からではないでしょうか。
▼西洋の栄養学はたんぱく質重視
 わが国が文明開化にあたってモデルにした西洋各国では、栄養学
の進歩につれて、たんぱく質こそ身体をつくる元、炭水化物や脂肪は
エネルギー源でしかないという考え方が主流になっていました。
そういう観点から、「米を主体にした日本食こそ諸悪の根源」という
主張もされました。ただ、ドイツ人医師ベルツはちょっと変わった
見方をしていたようです。
 日本人は、たんぱく質を多く含む味噌、豆腐、魚、鶏卵、鶏肉を
よく食べている。僻村や山間地方では豆類をよく食べている。
だから、日本食そのものが悪いとはいえない。これがベルツの主張
ですが、『だから脚気は伝染病である』と結んだところが限界でした。
▼米は毒物ではない
 麦飯の採用にもっとも消極的だったのは有名な石黒忠悳(いしぐ
ろ・ただのり)でした。石黒は1845年に奥州岩代国伊達郡梁川
(やながわ)に生まれ、1865(慶応元)年江戸医学所(幕府設
立の西洋医学伝習所)に学び、1969(明治2)年文部省に出仕
します。71年に文部省から兵部省へ、73年には陸軍1等軍医正、
79年には軍医本部次長。78年には内務省御用掛をかねて官立
脚気病院の設立委員になった人です。
 この人は官立脚気病院の関わりで、麦飯治療に功績があった
漢方医遠田とも親しい仲でした。ただの知人というばかりか、むしろ、
仲良しだったと思われます。石黒という人物は、決して頑迷な人では
ありませんでした。のちに女性が初めて正規の医師になろうとした
とき、大変、熱心に応援します。そして、親しい知人の遠田の「白米
原因説」に対して、とても論理的な反論を出しました。
『もし、米に毒があるなら、なぜ国民の大多数が脚気にかからない
のか。なぜ、男に多く、女性に少ないか。20歳から30歳の男性
に多く、40過ぎになると少ないのか。なぜ、学校の生徒や兵隊と
いう20歳前後の年齢で寄宿舎や兵営といった多数が群居するとこ
ろで起きるのか。なぜ、年によって流行の多少があるのか』
 ビタミンの存在が誰にも知られている現在ではかんたんなことで
すね。白米が悪いのではありません。玄米や精白度の少ないコメに
比べて、白米はビタミンB1が少ない。それにビタミンB1が足り
ない貧しい副食の組み合わせが欠乏症を起こし、それが脚気だとい
うのは誰もが知っています。つい先ごろですが、大阪の大学生が
脚気になったことがありました。野菜、果物を食べない極端な偏食と、
コンビニのカップめん、おにぎりしか食べなかったからだそうです。
 次に石黒は言います。高木のようなたんぱく質の不足が脚気の
原因という説に対しては、『病気の一因にはなるが、唯一の原因には
ならない』とします。また、麦飯が脚気に効くということには、麦飯
が良いという説には3つがあるという。
1、脚気は米に毒があるからだ。ならば、粟(あわ)か稗(ひえ)か
  麦、どれかを食べさせるか。それなら麦だろう。味もいいし、
  食べやすい。
2、何か分からないが麦を食べると症状がなくなる。だから麦を食べさせる。
3、脚気は食物の調和、比率が正しくないから起こる。麦は米より
  窒素を多く含んでいるから食べさせる。
 石黒自身も幼いころは田舎育ちで麦メシには慣れていました。
脚気の症状には麦を食べると良くなるという事実も知っていたよう
です。でも、科学的な、学問的な根拠はない。そこに石黒が気にした
ことがありました。
 この稿をはじめ、以後のメモも多くを山下政三博士の『鴎外
森林太郎と脚気紛争』によっていることをお断りしておきます。
(以下次号)
(荒木肇)
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● 著者略歴
荒木肇(あらき・はじめ)
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜市立学校教員、
情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員等を歴任。退職後、生涯学習研
究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務め
ながら、陸上自衛隊に関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受け
る。年間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。
◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」「自衛隊就職ガイ
ド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日本陸軍と自衛隊」「子供にも嫌わ
れる先生」「東日本大震災と自衛隊」
(いずれも並木書房 http://www.namiki-shobo.co.jp/ )
「日本人はどのようにして軍隊をつくったのか」
(出窓社 http://www.demadosha.co.jp/
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