硫黄島の手紙を見ました

昨夜は、実家がWOWOWに加入していることもあって、「硫黄島からの手紙」を見ることができました。

 親戚の方(父の叔父)が、兵役では満州(チャムス)におり、その後、召集があり、中部22部隊・独立速射砲大隊だったと聞いていますが、ここで戦死されています。
 召集を受けた同じ部隊の中の一人が銃弾を腹部に受けて動けず、塹壕に残された際、残りの者たちで突撃を敢行したということです。塹壕から出て突撃するなり、あまりの米軍の火力にあっという間に全員が吹き飛ばされたとういうことですが、これも塹壕に残された方が一部始終を目撃するところとなり、負傷で動けなかったところを幸運にも米軍の捕虜となって、米軍に治療を受け、その後の帰国がかなったから聞けた話しであったとのことです。
 幼少の頃より、その親戚のところには、よく遊びに行かせていただきましたが、玄関には「遺族の家」のプレートが張ってあり、仏壇には陸軍の軍服を着用した凛々しい遺影があって、正月に年始に行くと硫黄島の激戦についての話しをよくしてくれました。
 今を去る4年ほど前ですが、日米合同演習を見学する機会を得ました。米海兵隊(イラクから帰還の部隊など)と陸上自衛隊(大阪所在の普通科連隊など)との共同訓練でしたが、かつての屍山血河の死闘を演じたところが、今では同盟関係なので、大変皮肉に感じたものでした。
 昨夜の映画の中でも栗林中将の米国留学時代の回想シーンで、記念品のコルト・ガヴァメントを送られた後、米軍の将校たちと会食するところで、米国と日本が戦争になったら...と問われた際の答えが”同盟”ということを言って場を和ませるところがありましたが、これは大変興味深い映画であったと思います。
(ドン・フアン・デ・アウストゥリアのフアン)
【071231配信 「軍事情報」第328号(最新軍事情報)より】