マダガスカルとオーストラリアの甲標的

アフリカにマダガスカルという国があります。
インド洋に位置する島国です。
先の大戦で日本軍がこの島で戦ったことをご存知ですか?
長い間この島はフランスの植民地でしたが、フランスがドイツに降伏後、イギ
リス軍がフランス軍を追い出して支配していました。
昭和17年5月31日
秋枝中佐、竹本特務少尉、岩瀬大尉、高田兵曹長の4名が乗り組んだ帝国海軍
の特殊潜航艇(略称・甲標的)2隻が、島北部ディゴスアレス港の狭い入り口
から防潜網を潜って侵入し、湾内の英国軍艦1隻とタンカー1隻を撃沈しまし
た。
2隻のうち1隻は湾外への脱出に成功し、モザンビーク海峡に待機中の母艦に
帰投しようとしましたが、インド洋上の激しい風浪のため座礁してしまいます。
乗員2名は仕方なく、島に上陸して3昼夜かかって島を横断。モザンビーク海
峡側に出て母艦(イ20潜水艦、イ16潜水艦)に連絡をとろうとしましたが、
連絡時間が過ぎていたために母艦の姿はもうありませんでした。
2人の心境はいかばかりだったでしょう。
6月3日、英国の守備兵がやってきて降伏を勧めたのですが2人は断固拒否。
ピストル一丁で戦い、全身蜂の巣のようになって死んだそうです。
この話を聞いた英国のチャーチル首相は「日本の2人の士官は彼らの祖国に対
する献身的な功績を果たした」と、著書「第2次大戦回顧録」のなかで賞賛し
ています。
残りの1隻ですが、現在にいたるまで不明です。
ただ、昭和17年6月6日のBBC放送は次のようなニュースを流しています。
「6月1日午前、ディゴスアレスの我が基地に突如日本軍が攻撃を仕掛けてき
た。一瞬敵の上陸かと誤り錯乱に陥ったが、日本軍は2名の海軍士官であった。
我が軍はこれを包囲し、武器を捨てよ、抵抗は空しいと呼びかけたが、日本の
海軍軍人はこれを肯んじなかった。そして猛り狂ったように抜刀して斬りこん
できたので、やむなく2人を射殺した」
これを見る限り、6月3日に戦った2名とは日付も場所も武器も違います。
2隻の甲標的に乗った4名はすべて上陸して戦い、亡くなったのでしょう。
ちなみに先の2名に関しては、マダガスカルに慰霊碑が立てられているそうで
す。
このはなしを聞いたとき、「もし日本軍がスリランカとマダガスカルを制圧
していたら戦争の形も随分変わったものになっただろう。インド洋の制圧をな
ぜ狙わなかったのか?本当に疑問だ」と言っていた英国人のことをふと思い出
しました。
さて、甲標的による攻撃はオーストラリアでも行われました。
マダガスカル攻撃と同じ日付の昭和17年5月31日、3隻の甲標的はシドニ
ー湾を攻撃しました。
うち1隻は防潜網に引っかかって自爆。
1隻は軍艦を撃沈後湾外に脱出しましたが、砲撃を受けて海中深く沈みました。
そして最後の1隻は、米巡洋艦シカゴを追いまわしましたが、艇前部を損傷し
魚雷を発射できず自沈しました。2名の乗組員は拳銃で自決したそうです。
オーストラリア海軍は、海中深く沈んだ1隻以外の2隻を引き揚げましたが、
艇が海面に姿をあらわしたとき、一斉に脱帽し敬意を表したそうです。
また同海軍は艇内の遺体を収容し、厳粛な海軍葬をもって丁重なる葬儀を挙行。
遺骨を日本に送り返してきました。
余談ですが、亡くなられた士官のご遺族が昭和43年に訪豪したとき、オース
トラリアの世論は大変な歓迎ぶりであったということです。
当時の首相は自ら遺族の出迎えをし、「勇敢なるご子息を持たれてご名誉な事
であります」と心から敬意を表したという話です。
ドイツのUボートに比べわが潜水作戦はほとんど話題に上りませんが、
各地で人知れず任務を果たしていたというはなしでした。
(エンリケ航海王子)