独立混成旅団とは?

独立といえば、独混(どっこん)と独歩(どっぽ)大隊が有名です。独立混成旅団は1939(昭和14)年から編成されるようになりました。師団に属さず、方面軍や軍に直属します。そこで「独立」という冠称が付きました。
その隷下には混成という名の通り、旅団通信隊、同砲兵隊、同工兵隊があり、人員はほぼ1万名。ただし歩兵聯隊はありません。代わりに独立歩兵大隊が4個ありました。
 ドッコン旅団長はふつう少将でしたが、中将や大佐がなったこともあるようです。独歩大隊は「独混」の部隊であるから「独立」と付けられたわけで、決して上に属さないという意味ではありません。敗戦時には、独立混成旅団は99個もありました。
 もう少し独立混成旅団(軍隊符号はMbs)について説明します。編制表が出てきました。水戸の独立混成第5旅団は、独立歩兵第16大隊、同17、同18、同19、同20の5個大隊で編成されました。師団と比べると兵器勤務隊、衛生隊、野戦病院、病馬廠、輜重兵隊などがありません。軍の直轄でしたから、それぞれ軍直(ぐんちょく)の衛生隊や兵器勤務隊などの支援を受けました。また、同時に作戦に関与する隣接師団などの後方支援部隊から援助を受けたこともあります。
 独立歩兵第92大隊の編制をみてみましょう。本部は人30、馬4でした。歩兵中隊は5個あり、各中隊には195人の将兵がいました。中隊本部と3個小隊で構成された中隊には、小銃の他に軽機関銃×6、重擲弾筒×6を装備しています。つまり、各小隊には軽機関銃分隊2と、同じく重擲弾筒分隊2があったことが分かります。
 他に41式山砲×2、92式大隊砲×2をもつ歩兵砲中隊と、重機関銃×8の機関銃中隊があります。機関銃中隊は92式重機を装備したので、人は132人で馬が50頭もいます。歩兵砲中隊は人が130、馬が60頭でした。
 このように独立歩兵大隊は人員が1237人となり、合計5個大隊で各種の管理要員などをいれると、およそ1万名の部隊でした。
 なお、独混は改編されて師団の母体になることもありました。たとえば、第60師団は昭和17(1942)年に千葉県佐倉を編成地として発足します。これはもともと独立混成第11旅団でした。隷下には2個旅団司令部があり、それぞれ4個の独立歩兵大隊をもちました。師団でも隷下に聯隊がないという例になります。
 ただ、例外もありました。フィリッピンのレイテ島で戦った第26師団(編成地:名古屋)は、独立歩兵第11聯隊(名古屋)、同12(岐阜)、同13(静岡)の3個独立歩兵聯隊で構成されました。また、沖縄で玉砕された第62師団(編成地:京都府)は支那の山西省に駐屯していた独混第4旅団と、山東省にいた独混第6旅団の3分の2が合わせて生まれました。そのため歩兵聯隊がなく、8個独立歩兵大隊が基幹となっていました。
 さらに制度史的な解説を加えますと、第26師団の「独立歩兵聯隊」は独立旅団の中の歩兵聯隊ということから「独立」がついたのでしょう。この独歩11聯隊と同12聯隊は独立旅団のときからの名称も変えられませんでしたが、新編された第13聯隊もわざわざ「独立」をつけたと考えられます。よく知られているように軍旗には聯隊名が書かれていますから、歩兵聯隊の名称変更は難しいのです。
 他にも「独立工兵聯隊」というものがありました。平時の工兵聯隊の中には、2個中隊が野戦工兵で残りの1個中隊が坑道掘削、重架橋(じゅうがきょう)、敵前上陸などの特修工兵になっていることがありました。これらの聯隊では動員されると2個中隊は師団工兵になり、一個は別に動員が下令されて軍直轄の独立工兵聯隊になります。
第一次世界大戦から学んだこと──大正時代の陸軍(30) 荒木肇
第一次世界大戦から学んだこと──大正時代の陸軍(31) 荒木肇
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