トーチ作戦とインテリジェンス(31) 長南政義

2019年2月6日

【前回までのあらすじ】
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である。
前回は、副領事やアフリカ機関などが収集した情報を上級指導者や作戦計画立案者がどのように使用したのかについて述べた。
1942年8月7日に、ロンドンの合同情報委員会(JIC:JICは各省庁からインテリジェンスを集めて分析し、政府に短期・長期の情報評価報告書を提供する。また、JICは英国の各情報機関を監督する役割を持っている)は、連合国の侵攻作戦が成功する可能性を分析した報告書を提出した。
結論は次のようなものであった。フランス陸軍および空軍は、不可抗力であることを主張できる範囲で、ヴィシーからの命令に従って抵抗するであろう。そして、連合国による断固たる攻撃に直面した場合、フランス陸軍および空軍はたぶん速やかに崩壊するであろう。
もし、フランス領北アフリカで活動する情報機関が、侵攻の合意に先だつ一年の間、情報を収集分析していなかったならば、JICがこのような結論を出すことはできなかった。
当然のことながら、作戦計画立案者たちは情報収集の対象となる現地に所在していない。しかし、このことで、作戦計画立案者は別のジレンマに遭遇した。現地で情報収集活動をすることがない彼らは、現地事情や現地関係者の感情を正しく理解することができなかったのである。
たとえば、ドゴールはヴィシー政権の陸軍の将校団において裏切り者だとみなされていたが、一般市民を中心に構成されているレジスタンスの間では人気が高かった。
連合国は、北フランスに駐留するヴィシー政権の陸軍関係者を説得して味方に引き入れる必要があったので、アイゼンハワー将軍と作戦計画立案者たちは、軍関係者の支持を取り付ける方法を模索すると同時に、レジスタンス活動との関係もうまく調整する必要があった。
北アフリカでインテリジェンス活動を実行する各機関はロンドンやワシントンからの要求に答え続けた。そして、両国の情報収集関係者、作戦計画立案者および上級指導者が会した三者会談が、最終的に収集した情報を価値のあるものにし、フランス領北アフリカで何が起きているのかについての明確な理解をすべての関係者に提供することとなったのである。
今回から数回にわたり、両国の情報収集関係者と作戦計画立案者・上級指導者との会談が連合国の北アフリカ侵攻作戦に与えた影響について述べてみたい。
【エディー&マーフィー&“リガー”・スロヴィコフスキーの三者会談】
1942年7月下旬、ウィリアム・A・エディー海兵隊中佐が、最高幹部やアイゼンハワー将軍の幕僚と協議するためにロンドンにやってきた。
エディーが出発する前、エディー&ロバート・マーフィー&M・Z・“リガー”・スロヴィコフスキーの三人が、各機関の収集・分析した情報を統合し、エディーが収集した情報のギャップを埋めるために、アルジェのブールバール・サディ・カルノーにあるマーフィーの事務所で秘密会議を開いた。この会議の模様をリガーは次のように説明している。
インテリジェンス活動に関して十分な知識を有するエディーが、私に向かってエディー自身が集めた情報の断片を結び付けて一つの像を描くきっかけとなるような追加情報はないかと尋ねた。私は彼に対して、彼が問題としている情報のギャップが生じた理由はペーパー・ワークが米国人だけの間でやりとりされていることから生じたことにあると説明した。確かに、米国はリガーが米国の外交郵袋を使用して発信する文書は閲覧している。だが、あらゆる重要な報告や緊急報告は無線を使用して直接ロンドンに送信されているのだ。
しかしながら、私は彼が抱えている問題を解決する手助けを喜んでする気があったし、彼のために私の時間を使うのを惜しむ気持ちもなかった。というのも、私は、もしも必要な場合が生じた場合、彼がアフリカ機関関係者の手助けをすることでこの恩に報いることを希望したからだ。
「ワシントンにいるエディーのボスたちは北アフリカの軍事的・経済的情勢に関する詳細な情報を要求していた。私は、アフリカ機関が収集した情報を使用して、彼とこの問題を十分に議論した。
私は、沿岸防衛・陸軍部隊の装備・フランス陸軍の士気に関する彼の疑念を晴らした」(M・Z・“リガー”・スロヴィコフスキー『シークレット・サービスで勤務して ~たいまつに火を点けて~』、原題:In the Secret Service: The Lighting of the Torch)。
こうして、ロンドンで最高幹部および作戦計画立案者に対して行うブリーフィングに必要な情報を統合することができたエディーは、ロンドンへ向けて出発したのである。
【ロンドンでのエディー】
エディーは、ロンドンに着くと、OSSのナンバー2であったエドワード・バクストン大佐と最初に会談した。バクストンはディナー・パーティーを手配した。エディーはそこでジェームズ・ドーリットル将軍(日本ではドーリットル空襲の指揮官として名高い)、ジョージ・パットン将軍、ジョージ・ストロング将軍(新しく任命された米国陸軍情報部長)と面識を得ることができた。
ディナー・パーティーの会場にエディーは古い戦傷のため脚を引きずるようにして歩きながら登場した。エディーの制服の左胸ポケットの上には五列の略綬が輝いていた。その中には、海軍十字章(海軍省が授与する勲章の中で二番目に高位の勲章)、殊勲十字章(陸軍省が授与する勲章の中で二番目に高位の勲章)、クラスター付の銀星章(銀星章を複数回授与されたことを意味する)、2個のパープルハート章があった。
きわどい発言で有名なパットン将軍は、この若い将校を熟視して、次のように叫んだ。「この野郎は、ずいぶんと撃たれているではないか!」。
【エディー、将軍たちに感銘を与える】
エディーは、将軍たちに対して、潮流、港湾の深さ、橋梁・トンネル・空港の位置、海岸砲の配置、フランス陸軍の兵力と部隊配置、最も好ましい上陸地点に関する豊富な情報を提示した。エディーは、フランス陸軍が連合国の上陸作戦に対して無抵抗である可能性や、フランス陸軍が連合国に対して支援する可能性についても将軍たちに話している。さらにエディーは、フランス人抵抗組織(レジスタンス)の兵力、組織、指導部の能力、潜在的能力に関して、詳細かつ現実的な情報を提供している。エディーは、自身のインテリジェンス組織や、船舶の移動・港湾の防衛体制に関する情報についても将軍たちに説明した。
三人の将軍たちはエディーが述べた次の結論に特に注目した。
「もし、我々が北アフリカに遠征軍を送り出したとしても、形ばかりの抵抗しか受けないであろう」(リチャード・ハリス・スミス『OSS ―米国最初の中央情報組局秘史―』、原題:OSS: The Secret History Of America’s First Central Intelligence Agency)。
この会談は、翌朝早くまで継続した。そして、エディーの話の内容にとても感銘を受けたジョージ・ストロング将軍は、アイゼンハワー将軍に電話をかけ、エディーとアイゼンハワーとの会談をセッティングした。
【「彼は参謀本部にとって価値のある情報を多数持っている」(アイゼンハワー)】
アイゼンハワーとの会談の結果の良否はエディーにとって明白であった。というのも、アイゼンハワーは、米国陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルに対して、「海兵隊大佐エディーが今週ワシントンに到着するであろう。彼は参謀本部にとって価値のある情報を多数持っている」との内容の電報を出したからである。
さらにエディーは、アイゼンハワーからロンドンとワシントンで現在進行中の侵略作戦計画に関する情報を得ることができた。そしてこのことは、エディーが自身のインテリジェンス組織と侵攻作戦に対する支援に関するより明確な計画を作成するうえで非常に有益であった。
この会談の結果、重要地点占領のために投入される特殊部隊の組織化・訓練、上陸地点に関する情報収集、連合国の侵攻作戦にとって有益な人物を北アフリカから極秘裏に出国させることや、上陸がダカールで実施されるのではというドイツ側の先入観を強化させるような工作が、作戦計画に加えられることとなったのである。
次回も引続き、両国の情報収集関係者と作戦計画立案者・上級指導者との会談の結果が連合国の北アフリカ侵攻作戦に与えた影響について述べる。