トーチ作戦とインテリジェンス(23) 長南政義

2019年2月6日

おはようございます。長南です。
先週の11月7日が立冬でした。暦の上ではすっかり冬ですね。
立冬ということで、わが家では食卓にカボチャが並びましたが、お宅ではいかがでしたか?
それでは、今週もよろしくお願い申し上げます。
【前回までのあらすじ】
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である。
前回から、アフリカ機関を中心とする英国のインテリジェンス活動について述べている。前回は、特に、アフリカ機関による情報収集の対象となった事項を中心に考察した。
1941年7月、英国は、アルジェリアを拠点とする、フランス領北アフリカにおける秘密インテリジェンス・ネットワーク確立のためにM・Z・“リガー”・スロヴィコフスキー(M・Z・“Rygor” Slowikowski)を派遣した。この時、彼につけられたコードネームが厳格なを意味する「リガー」(Rygor)であり、彼の機関につけられたコードネームが「アフリカ」であった。
ロンドンに亡命中のポーランド軍情報部の中央局は、リガーに対して、フランス領北アフリカの防衛状態や、フランス領北アフリカを出入りする船舶の積荷などに関する情報を要求した。
リガーはロンドンから受信した情報要求を基に、情報将校としての自身の経験を加味して、アフリカ機関の機関員(インテリジェンス・オフィサー)が注意し、彼らが現在リクルート中の協力者(エージェント)を使って情報収集を始めた時に収集すべき情報に関する情報要求リストを作成した。
リガーがこのような情報収集活動の指針を明確に示したことで、協力者たちは担当地域の情報を効率的かつ効果的に収集することが可能となったのである。
今回も引続き、アフリカ機関の情報収集活動に関して述べることとする。
【アフリカ機関の創設】
前回引用したリガー作成の情報要求リストからもわかるように、リガーは、ロンドンに亡命中のポーランド軍情報部の中央局から来るであろう情報要求を正確に予期して情報要求リストを作成し、自身の機関の協力者たちに要望すべき事項を明確な形で指示していた。
リガーのリストは、アドバンス・フォース・オペレーション(Advance force operations:AFO 敵地奥深くに潜入し情報収集や破壊工作などを実行する作戦)により必要とされる常識的な項目を述べたものであった。しかしながら、リガーのリストは、リクルート中の協力者(エージェント)を正式に雇用する前に、リガーとその主要な機関員たちが協力者によって提供される情報をチェックすることを可能にしたのもまた確かであった。
リガーは、一握りのポーランド人により指導されるインテリジェンス・ネットワークを、フランス領北アフリカ中に注意深く確立していった。これらのポーランド人は、リガーと長年友情を育んできた人物であり、信用がおける人物たちであった。
幹部要員はリガーと緊密な関係にある人物であったが、より重要なことは、インテリジェンス・ネットワークには、価値のある情報を収集するために、フランス領北アフリカの住民たちが多数、協力者として雇われたことである。この協力者は、男女を問わず、またその職種も警官や役人といった公職に従事するものに限らず、鉱山労働者、港湾労働者、医師、商店主、アラブ人まで多岐に及んだ。
【リガーはどのような情報を収集・報告したのか】
リガーがアルジェリアに到着してからわずか2~3ヶ月以内のうちに、アフリカ機関はロンドンに恐るべき数の情報を送った。例えば、1941年11月の1ヶ月の間に、リガーは、57通ものメッセージをロンドンに無線で発信し、ロンドンからは58通のメッセージを受信している。
リガーの回想録『シークレット・サービスで勤務して ~たいまつに火を点けて~』(原題:In the Secret Service: The Lighting of the Torch)によれば、北フランスに入るリガーからロンドンに向け送られた重要情報の中には、以下のようなものがあった。
「1、軍事全般に関すること。
(1)チュニス近郊の空軍基地に所在するドイツ軍輸送機について。
(2)カサブランカ、ラバト、マラケシュに駐屯するフランス軍守備隊について。
(3)アルジェリアのメゾンブランシュからチュニジアのサファクスに移動した戦闘機部隊に関すること。
(4)メトラインの防衛状態。所在する大砲の口径が35センチであること。
2、海軍に関すること。
(1)1941年10月29日から11月10日までの間に、カサブランカ港に所在したフランス海軍部隊のリスト。
(2)アルゼヴの水上機基地が1個航空団(12機編成)に増強されたこと。
(3)オランへの船舶の出入港。
(4)オランの港に停泊する船舶リスト。
(5)チュニジアの領海を航行するドイツ海軍輸送船について。
(6)ドイツ軍アフリカ軍団を輸送する輸送船が沈没したこと。
(7)1941年10月23日附のメッセージ番号172番で報告した、オランからビゼルトを経由してアルジェに向けて航行中の石油タンカーが、英国海軍の潜水艦の魚雷攻撃を受け、アルジェ港で修理中であること。
3、その他の重要情報
(1)捕虜となった英国空軍将兵がラグワットの収容所へ移送されたこと。
(2)チュニジアからリビヤに向けて小麦粉が盛んに輸送されていること。
(3)アルジェリアでドイツ人「旅行者」が急増しており、カサブランカやチュニスで「領事館」が開設されたこと(筆者註:言い換えると、旅行者に変装したスパイがアルジェリアに多数もぐりこんで、盛んに諜報活動を実施しているということを意味する)」。
リガーによれば、ロンドンのポーランド軍情報部中央局は、リガーが前回発信したメッセージの内容を確証できる情報を次回の発信時に発信することを望んだという。また、ポーランド情報部中央局は、特に強い関心を抱いていた、ビゼルト港およびチュニス空軍基地に関する詳細な情報をリガーに望んだという。
【情報を「収集」するにとどまらなかったリガーの活動】
リガーがロンドンに発信し続けた情報の詳細度のレヴェルは、アフリカ機関が活動している間、高いレヴェルを維持し続けた。リガーは、情報を協力者から受領してロンドンへ送信するだけではなく、情報の中に存在する穴を埋めるために分析を行なったり、情報の穴を埋めるために必要な場合には協力者に指示してさらに詳細な情報を獲得させたりもした。
フランス領北アフリカにおいて活発であったフランスおよびドイツの防諜活動にもかかわらず、リガーと彼の協力者たちは、その全活動期間を通じて、かなり詳細で確度の高いレヴェルの情報をロンドンに提供し続けることができた。
しかしながら、1941年10月初頭、リガーは、フランス領北アフリカで活動している、もう一つの連合国の情報機関の存在を疑い始めた。そこでリガーは、自身がその情報機関と接触して良いか否かをロンドンに照会した。しかし、ロンドンからリガーの許に届いた答えは、そういった情報機関はフランス領北アフリカには存在しないというものであった。
【本国が否定した米国人のインテリジェンス活動を察知したリガー】
インテリジェンスの世界には裏の裏がつきものである。このリガーの照会電に対するロンドンからの回答にも裏が存在した。ロンドンがリガーに話さなかったことは、フランス領北アフリカにおいてインテリジェンス・ネットワークを形成しようとしている米国人による活動に関するものであった。
しかしながら、フランス領北アフリカで米国人がインテリジェンス活動を実行していることは、リガーは協力者たちの働きによってすぐに察知することができた。なんと、1941年7月にアルジェリアに到着して間もなく、リガーは、フランス領北アフリカで活動する十二使徒たち(米国がスパイとして派遣した副領事)の存在に気づいていたのである。このことからもリガーが大変有能なスパイであったことがわかる。
【リガー、同一地域での重複するインテリジェンス活動は無駄である事に気付く】
リガーがアルジェリアの地に降り立ったのは、フランス領北アフリカ地域に十二使徒たちの最後の者たちが着任してから一週間~二週間以内のことだった。その後、リガーは、米国の領事たちがアフリカ機関に協力する協力者を米国の協力者として採用しないように監視していることに気が付いた。
リガーとその機関員たちは、「インテリジェンスの観点からすると、彼ら[ 十二使徒たち ]がまるで外交官のように振る舞っているので、時間を浪費している」ことを理解した。
では、リガーはどのようにして同一地域において連合国のインテリジェンス活動が重複している無駄を解消しようとしたのであろうか?次号ではリガーが米国の十二使徒と接触し、どのような協力関係を構築したのかについて述べる。
(以下次号)
(ちょうなん・まさよし)
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