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武士道精神入門(23) 「武士道精神の実践:二人の強者(つわもの)-平敦盛と熊谷直実」

time 2013/08/02

http://asamoyosi.wordpress.com/2012/08/27/%E5%B9%B3%E6%95%A6%E7%9B%9B%E3%83%BB%E7%86%8A%E8%B0%B7%E7%9B%B4%E5%AE%9F%E3%81%AE%E5%A2%93%EF%BC%88%E9%AB%98%E9%87%8E%E5%B1%B1%E3%83%BB%E5%A5%A5%E3%81%AE%E9%99%A2%EF%BC%89/

敦盛と直実の墓(クワウグワ記より)

▽ ごあいさつ

 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

今回は「武士道精神の実践」の第九話といたしまして、『平家物語』に出てくる有名な武士たちの物語について紹介いたします。か弱き者、敗れたる者、虐げられた者への仁愛の情こそが、「賢く、強く、そして優しくあれ」とする武士道精神の根本をなすものです。

 それでは、本題に入ります

【第23回】武士道精神の実践:二人の強者(つわもの)-平敦盛と熊谷直実

▽ 一騎当千の兵(つわもの)熊谷直実

 平安時代末期から鎌倉時代初期の武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)を本領とする武将・熊谷直実(くまがいなおざね)は、永治元(1141)年2月15日(旧暦)熊谷直貞の次男として生まれた。熊谷氏は、桓武平氏・平貞盛の孫である維時(これとき)の子孫であるとされている。
 熊谷直実の幼名は弓矢丸であり、その名のとおり弓の名手であった。幼い時に父を失い、母方の伯父である久下直光(くげなおみつ)に養われた。

 保元元(1156)年7月、十五歳の直実は、保元の乱で源義朝の下で戦い、平治元(1159)年12月の平治の乱では、十八歳にして源義平の下で働いた。その後、直実は久下直光の代理で京都に上るが、一人前の武士として扱われないことへの不満から、直光の元を去って自立し、平知盛に仕えるようになる。

 このようにして、京で平家に仕えていた直実は、三十代後半で妻と直家、実景、直勝の3人の子を伴って東国に下り、治承4(1180)年、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し、御家人となる。そして、常陸国の佐竹秀義の追討で先駆けして大手柄を立て、一騎当千の高名を顕すとともに、熊谷郷の支配権を安堵される。

▽「宇治川の合戦」に一族郎党で参戦

 寿永2(1183)年7月、都落ちした平家に代わり3万騎を率いて京都を占領した木曽義仲軍は、京で乱暴狼藉(ろうぜき)を働き、9月には平家との戦いに大敗した。義仲を見放した後白河法皇は鎌倉の源頼朝に「義仲追討」を命じたことから、翌年1月、源範頼と源義経の軍勢が近江に進出した。当時、四十二歳の熊谷直実は、一族郎党を率いて、範頼軍に参じていた。その中には、十五歳の長男・直家もおり、これが初陣であった。

 大義名分を欠いていた義仲軍では離反者が続出し、兵力は4500騎にまで激減していた。義仲軍は、今井兼平が率いる2500騎で瀬田に、根井行親(ねのいゆきちか)が率いる1500騎で宇治に陣を敷き、義仲は500余騎で院御所を守護した。

 1月20日、範頼軍3万騎が瀬田を、義経軍2万5000騎が宇治を攻撃、義仲軍は必死に防戦するが宇治正面で義経軍に突破される。これが「宇治川の合戦」である。義仲は今井勢と合流するため瀬田へ向かうが、義経軍がこれを追撃し、範頼軍を阻止していた今井勢も宇治正面が突破されたと聞いて退却し、粟津で義仲と合流する。義仲は北陸への脱出を図るが、範頼・義経軍の急襲を受けてあえなく撃滅され、戦死した。

 このようにして源氏同士が争っている間、福原(現在の神戸)を根拠地としていた平家は勢いを盛り返し、義仲が義経軍に討たれた頃には、播磨国(現在の兵庫県)の生田の森から一ノ谷にいたる地域に平家一門の主力を集め、総勢4万の軍勢を展開させていた。

 平家は須磨の浦の沖合いで軍船により安徳天皇を御守りするとともに、一ノ谷に山城を築いてこれを本陣とし、平知盛(たいらのとものり)の軍勢がこれを守った。そして、東側の生田の森を大手(正門)として平重衡(たいらのしげひら)の軍勢が、西側の塩屋(一ノ谷城の西約2キロにある最も狭隘な地)を搦め手(裏門)として平忠度(たいらのただもり)の軍勢が守備した。さらに側面からの攻撃に備えて生田の森北方に山手口の城戸を設けた。本陣と搦め手を置いた一ノ谷付近は、北側はけわしい断崖絶壁、南側は海という守備に適した地形であった。

▽「一ノ谷の合戦」で武勲を立てる

 寿永3(1184)年1月26日、後白河法皇の院宣を受けた源氏の軍勢は、福原攻略のため京を出発した。
 源範頼が率いる本隊1万余の軍勢は、主力で瀬戸内海沿いの平地を生田の森へ向かい、その一部である多田行綱らの山手口攻撃隊が北側山地から鵯越(ひよどりごえ)へと向かった。この多田らの軍勢は、山手口を突破して大輪田泊(おおわだのとまり=現在の神戸港)を目指して駆け下りることになっていた。

 一方で源義経は、別働隊3千余を率いて北方山地内の丹波路から大きく迂回して一ノ谷後方の明石へと向かった。熊谷直実と一族郎党は、今度はこの義経の軍に参じていた。

 明石へ向かう途中、義経軍は三草山(一ノ谷城から直線距離で約32キロ北東)で平資盛(たいらのすけもり)が率いる警戒部隊7千騎を討ち破り、2月6日朝には、播磨の三木(明石の手前約12キロ)に到着した。
 
義経は、土肥実平、田代信綱らに別働隊主力の3千騎を預け、谷間を明石川に沿って海岸に出て塩屋に向かい、翌7日の日の出とともに西側から攻めかかるように命じた。そして、義経は少数の精鋭を率いて一ノ谷城の背後にある鉄拐(てつかい)山へと向かった。この少数精鋭の「奇襲部隊」には、熊谷直実と息子・直家、郎党一人の三人が含まれていた。

 2月7日早朝、源氏軍は東西と山手口の三方向から総攻撃を開始した。正面から攻める源範頼の主力部隊をはじめ、搦め手、山手口からの攻撃も平家軍の激しい抗戦により苦戦し、一進一退をくり返していた。その激戦の最中、義経の軍勢は、鉄拐山の断崖絶壁から壮烈な逆落としを敢行し、背後から一ノ谷城の敵本陣に突入した。

 急崖を下り、平家の陣に一番乗りで突入した直実は、たちまち平家の武者たちに囲まれ、先陣を争った同僚の平山季重(すえしげ)ともども討死しかけた。息子・直家も敵の矢に射抜かれて深手を負って倒れた。しかし、この奇襲攻撃は大成功し、一ノ谷の平家本陣と搦め手が一挙に崩れた。このことが全軍に波及し、平家軍はあっけなく潰滅、敗れた平家軍は、沖合いの軍船へと総退却を始めた。

▽ 平家の若武者との一騎打ち

 なんとか窮地を脱した直実は、さらに大きな功績を挙げるため、平家の公達(きんだち)など高位の敵を探し求めた。そして、波際を沖の船に向かおうとしていた華麗な鎧(よろい)姿の騎乗武者を見つけ、大声で叫んだ。

 直実「そこへ逃げるのは、平氏の大将と見た! 敵に背を見せるとは、大将にあるまじきこと!」

 この言葉を聞いて振り向いた平家の武者は、抜刀して引き返し、直実に一騎打ちを挑んできた。直実がむんずと取っ組み合って敵の武者を馬から引きずり落とし、両腕で地面に組み伏せた。そして、その顔を見るとまだ髭(ひげ)も生えていない十五~六歳ぐらいの少年であった。・・・一瞬、息子・直家の姿が脳裏をよぎった。

 当時の武者の作法では、相手の身分が高いか、こちらと力量が同じ程度でなければ、むやみに命を奪わないことを礼儀としていたので、直実はあえてこの少年武者に尋ねた。

 直実「私は熊谷出身の次郎直実と申す。あなたさまはどなたか。」

 少年「名は名乗らぬが、私の首を取って人に尋ねてみよ。すぐに分かるであろう。おぬしが手柄をたてるには良い敵じゃ。」

 健気に答える少年武者に、直実の殺意は消失し、刃を握る手が弛(ゆる)んだ。

 直実「なんとお若き殿、御母のもとへ落ち延びなされ。私の刀を貴殿の血で染めることはできません。さあ、敵に見咎(とが)められぬ間に、どうぞお逃げ下され。」

 少年「ならぬ。お互いの名誉のためだ。さあ、私の首を斬れ。」

 直実は、この少年武者を逃がそうとして説得していたが、遠く背後から「熊谷殿、いかがなされた。」と味方が大声で叫ぶのが聞こえた。直実の強靭な腕がわなわなと震えた。味方の軍勢が近づいてくるのがわかったので、直実は初年武者に告げた。

 「今、ここで私が助けても、いずれ誰かの手に落ちます。同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう。」

 そして、直実は「一念阿弥陀、即滅無量罪」と念仏を唱えて氷の刃を振り下ろし、この少年武者の首を斬った。

 最期まで武士として堂々とした態度を崩さず、おそらく初陣であろうこの戦(いくさ)に斃れた少年武者の遺骸を前にして、幼くして父を失っていた直情径行の坂東武者・熊谷直実の目からは、熱い涙が止めどなく流れた。

 ・・・あわれ、武士でなければ、こんな悲しい思いをせずにすむものを・・・。

▽ 平家の公達・平敦盛

 6時間に及ぶ一ノ谷の合戦は、源氏の大勝利に終った。平家は清盛の弟である忠度、孫の知章など、多くの将兵を失った。また、清盛の息子・重衡は生け捕られ、京そして鎌倉へ送られた。

 熊谷直実が討ち取った若武者は、首実検により平清盛の甥である平敦盛(たいらのあつもり)十七歳であると判明した。敦盛は、清盛の異母弟である経盛(つねもり)の末子として生まれ、従五位下(じゅごいのげ)に叙せられていたが、任官する機会が得られないまま平家が西走したことから、「無官大夫」と呼ばれていた。

 討ち死にしたとき、身に帯びていた笛「小枝(さえだ)」から、この若き平家の公達(きんだち)の素性が明らかになった。この遺品の笛は、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛が鳥羽上皇から下賜されたもので、忠盛から父・経盛、そして敦盛へと相伝されたものであった。一ノ谷の合戦があった日の朝、この笛の音が一ノ谷城に響いていたという。

 敦盛の長兄の経正(つねまさ)は琵琶の名手であった。そして次兄の経俊(つねとし)は優しく大らかにして勇猛果敢な武士であった。この三人の兄弟は皆、一ノ谷の合戦で戦死した。そして、生き残った父・経盛も「壇ノ浦の合戦」において討死する。

▽ 慙愧(ざんき)の念と世の無常に悩む日々

 平家追討の戦いが壇ノ浦の勝利で終ると、熊谷直実は一族郎党を率いて領地の熊谷郷に凱旋した。瀕死の重症を負った息子・直家も、一命を取り留め、その後は健康も回復した。それでも、息子同然の少年武者の首を自らの手で斬った直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思いが日々強くなっていった。

しかし、敵の武者を討ったことを理由にして仏門に入るようなことは、武士の棟梁として許されることではなかった。一族郎党に及ぼす心理的な影響も大きく、へたをすれば武門も成り立たなくなる。

 戦場における武士には、ときに鬼と化すような冷徹な心さえも求められる。それが、武士であれば誰もが超えなければならない「心の壁」であった。しかし、直実はその壁を越えられなかった。いや、あえて超えようとしなかったのである。・・・空中に白刃が舞い、振り下ろされた瞬間、我が身が少年武者の血で真っ赤に染まる・・・そんな悪夢に幾度も悩まされていた直実は、栄誉や報奨にも関心が向かなくなり、一日も早く頭を丸め、僧衣をまとい、余生を念仏行脚に明け暮れる出家者となることを願い、そのきっかけを探し求めた。

 文治3(1187)年8月4日、四十六歳の直実は、鶴岡八幡宮における流鏑馬(やぶさめ)で「的(まと)立役」を命ぜられた。弓の名手であった直実は、この役目を不服として断固拒否した。その理由は、鎌倉の御家人はみな同輩の身分であるはずなのに、流鏑馬の「射て」は騎馬、「的立て」は徒歩であるのは不平等である、というものであった。

この時代の鎌倉では、武士の身分だけが街中を騎馬で通行でき、下人や所従以下の身分のものは徒歩であったので、直実はこのことにかこつけて意固地になった。源頼朝は、この「的立役」は名誉な役目なので是非受けてもらいたい、と幾度も説得したが、直実は承知しなかった。頼朝はついに激怒したが、それでも直実のこれまでの武勲を重んじて所領の一部を没収するに止まった。

▽ ついに訪れた出家の機会

 直実はかねてから、不仲であった伯父の久下直光との間で領地の境界を巡り争っていた。若い頃から直実は、直光から自立して自ら所領を支配することを目指し、平家追討の戦いで大活躍して御家人としての地位と熊谷郷の支配権を認められてきた。しかし、孤児であった直実を庇護して育てた直光にすれば、そのことは久下氏の所領であるはずの熊谷郷を直実に奪われることになり、感情的にも受け入れられなかったのであった。

 建久3(1192)年11月25日、頼朝の面前で、直実と直光がそれぞれの言い分を論じ合うことになった。しかし、武勇に優れていながらも口べたな直実は、頼朝の質問にも上手く答えることができなかった。

このため質問が直実に集中した。やがて、直実は憤怒して「梶原景時のやつが直光をひいきにして、自分らに都合のよい事ばかりを頼朝殿のお耳に入れているのだから、私の敗訴は決まっているようなものだ。これ以上は何を申し上げても無駄である!」と怒鳴り、机上の筆や書類を投げ捨てて座を立つと、刀を抜いて髻(もとどり)を切って退出した。直実は、そのまま自分の屋敷にも帰らずに上洛し、法然のもとを訪ねて弟子となった。

 このような伯父との相続争いが、これまでの輝ける武勲や名誉を捨ててまでして仏門に入るような理由とは到底思えない。それでも直実は「念願かなって」仏門に帰依することができた。一ノ谷の合戦から8年後、直実が五十一歳の冬のことであった。

▽ 直実、敦盛とともに眠る

 京に入り、法然を訪ねて面談を求めた直実は、対応した弟子の前でいきなり刀を研ぎ始めた。驚いた弟子が法然に取り次いだ。やってきた法然に、直実は真剣な眼差しで尋ねた。

 「私のように罪深き者、死してどこへ行くのでありましょうか。」

 法然は静かに答えた。

 「罪の軽重にかかわらず、ただ、念仏だけを申せば誰もが往生する。それ以外には何もない。」

 この言葉を聞いた直実は、さめざめと泣いた。法然の答え次第では、その場で切腹するなり、手足を切り落とすなりの覚悟をしていたのであった。その後、直実は家督を嫡子・直家に譲って法然の弟子となり、出家した。「蓮生(れんせい)」と号して念仏三昧の生活に入り、京の光明寺や法然寺、武蔵の熊谷寺(ゆうこくじ)などを開基した後、承元2(1208)年9月14日、東山山麓で予告したとおり、声高念仏しながら往生した。享年六十八。

 京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院・金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)には、法然の廟の近くに、熊谷直実と平敦盛の五輪の塔が向かい合わせにある。また、高野山にも直実と敦盛の墓が二つ並んであるという。

(「二人の強者-平敦盛と熊谷直実」終り)

(いえむら・かずゆき)

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