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武士道精神入門(22)—武士道精神の実践:空の武士道—

time 2013/07/26

Copyright © 2009 _rockinfree

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【第22回】武士道精神の実践:空の武士道

 平成11年11月22日、13時2分。

 航空自衛隊パイロット、二等空佐・中川尋史と三等空佐・門屋義廣は、飛行訓練のため、T33練習機に搭乗し、航空自衛隊入間基地を飛び立ちました。二人とも、航空学生出身で飛行時間5000時間を超えるベテランのパイロットでした。

 この訓練は、「年間飛行」 といって現場を離れたパイロットの技量維持が目的でした。そのため、内勤になった中川二佐が、前部のコックピットに乗って機長として操縦桿を握り、現役パイロットの門屋三佐が教官として後部席に乗りました。約40分の飛行予定は、危険な訓練とは程遠いものだったのです。

 13時38分、入間基地の管制塔に、二人の搭乗した練習機から無線連絡がはいりました。

 「マイナートラブル発生」

 そのとき、T33は入間基地まで北東39キロ、高度760メートルの位置を時速450キロで飛行中でした。「マイナートラブル」。つまり、このとき、中川機長は軽いトラブルと認識していました。機体に異常な振動があり、オイルの臭いがしたといいます。

 13時39分、さらに無線が入ります。

 「コクピット・スモーク」

 操縦室に煙が充満したので、直線距離(最短コース)でもどるとの連絡です。このとき、基地から約18キロの地点でした。

 「大丈夫だろう。降りられる」

 中川機長は、落ち着いて基地への帰路を確認しました。

 ところが、13時40分。

 「エマージェンシー!(緊急事態)」

 T33が「緊急事態」を告げます。管制塔は、瞬時に緊張に包まれました。
 エンジントラブルは思ったよりもひどく、機体はどんどん降下していきます。当日、複数の地域住民が目撃したところによれば、

 「プスンプスンと変な音を立てながら、急降下していった。エンジン音はしなかった」(現場から数百メートル北に住む男性)

 「飛んでいるときのエンジン音はしなかった」(近くに住む主婦)

 と、エンジンはすでに止まっていたと考えられます。二人はエンジン停止という状況下で、あらゆる手を尽くしますが、急激に高度が低下し、もはや基地への帰還は困難と判断したようです。

 13時42分14秒。

 「ベールアウト! (緊急脱出)」

 中川機長から、緊急脱出が宣言されます。高度は360メートル、基地まであと4キロの距離でした。

 パラシュートで脱出するには、ある程度の高さが必要で、この機の場合、300メートルなければ落下傘がじゅうぶんに開かないのです。しかし、その13秒後の13時42分27秒。

「ベールアウト!」。

 ふたたび同じ言葉を受信。中川機長たちは、まだ脱出していなかったのです。高度は300メートル、安全に脱出できるギリギリの高さでした。しかし、この受信を最後に、中川機長からの無線連絡は途絶えます。

 そして9秒後の13時42分36秒。

 二人の乗ったT33は、地上約60メートルの高圧送電線に接触、入間川の河川敷に墜落しました。これにより、東京・埼玉で80万世帯に停電が起こったのです。

 T33が送電線と接触する直前、近所の目撃者が乗員一人の脱出を見ていました。高度約70メートル。後席の門屋三佐でした。門屋三佐のパラシュートは完全に開かないまま墜落し、地面に叩きつけられ、亡くなりました。中川機長の脱出は、高圧線と接触したその瞬間だったようです。垂れ下がった送電線のほとんど真下に中川機長は放り出され亡くなっていました。

 事故の概要を見てみると、ひとつの疑問が浮かびあがってきます。練習機に乗っていた二人の自衛官が、「ベールアウト」 すなわち、緊急脱出したのは、高圧線に接触した直前と、接触した瞬間です。しかし、二人は墜落する22秒前の13時42分14秒、さらに9秒前の42分27秒と、2度にわたり「緊急脱出」を宣言しています。にもかかわらず、どうしてすぐ脱出しなかったのでしょうか。そのときに脱出していれば、パラシュートの開く十分な高度があり、二人が亡くなることはありませんでした。この22秒間に、はたして何があったのでしょうか。

 翌年の四月、空自の事故調査委員会が発表した調査結果があります。これによると、パイロットが一回目の「ベールアウト」を通報した13秒後にもう一回、同じ言葉を叫んでいたことについて、「いったん脱出しようとしたが、さらにもう少し頑張ろうとしたため」ということが分かりました。

 いったい、彼らは何を「頑張ろう」としたのでしょうか。

 実は最初に「ベールアウト」を宣言したとき、二人の眼下には、狭山ニュータウンの住宅街が広がっていたのです。彼らは危険を承知しながらも、地域住民に被害が及ばぬよう、何とか機体をコントロールして、人のいない入間川の河川敷まで機体を運び、そこで墜落したということなのです。
 結局、二人は高度70mという墜落ぎりぎりのところまで踏ん張りました。高圧電線を切断して大規模な停電を発生させたとはいえ、民間の生命・財産に重大な被害を与えずに済んだのです。
 もし宣言通りに高度300メートルで脱出していれば、彼らは助かったかもしれませんが、T33は住宅街に落ち、停電どころの騒ぎではなかったでしょう。
 二人は己自身にせまりくる死の恐怖よりも、『国民の生命財産を守る、その使命のためには自らの命を懸けても職務を遂行する』という自衛官の宣誓を、身を以て実行したのです。
 亡くなった二人の自衛官、中川尋史さん(享年47歳)と、門屋義廣さん(享年48歳)。何故、このような決断と行動ができたのでしょうか。二人はどのような人だったのでしょう。
 中川さんと航空学生入学時からの同期生で、門屋さんのこともよく知る現役航空自衛隊員のKさんに話を聞きました。
 中川尋史さんは、長崎県佐世保の出身で、地元の高校を卒業後、昭和47年に航空学生(第28期)となりました。自衛隊のパイロットに憧れる若者は多く、航空学生になるのは、大変な難関でした。およそ70名(当時)の募集枠に対して、毎年約3000名以上の志願者があり、学生の内、3分の1くらいは浪人経験者でした。その多くの学生同様に、中川さんも戦闘機のパイロットに憧れる少年の一人だったのです。
 自衛官となった中川さんは、その後、指揮幕僚課程(CS)に合格。これは、航空自衛隊の将来を担っていく優秀な人材(幹部)を育成する部署で、ごく少数の隊員が厳しい試験で選ばれました。
 もちろんパイロットとしても非常に優秀で、優れた技量が要求される飛行教導隊のアグレッサ(戦闘機のパイロットを訓練するための仮想敵機役)の任務についたほどでした。
 門屋義廣さんは、愛媛県出身で、やはり航空学生 (第25期)から叩き上げのパイロットでした。操縦者としての腕は抜群で、早くからF15戦闘機に搭乗し活躍していました。一般に戦闘機の場合、飛行2000時間を越えると、ベテランのパイロットとされていますが、門屋さんはそれを大幅に超える6492時間。
 生涯現役の操縦士の道を歩んだ門屋さんは、筋金入りのパイロットだったのです。親々とした性格で、いつも笑顔を絶やさない人で、門屋さんの怒ったところを誰も見たことがないぼど優しい人だったといいます。

 中川さん、門屋さんも含め、自衛官は一つ一つの任務を遂行しながら、しだいに自分なりに問いかけ、そして体得し、芽生えてくる意識があるといいます。
 なかでも、もっとも重要な問いかけのひとつは、自分の乗っている飛行機が故障したら、どう行動すべきか、その時の覚悟についてです。これは航空自衛隊のパイロットであれば、誰もが考え、自ら悟っていくものだといいます。
 昭和49年、名古屋第3航空団ではF86F機が故障し、市街地に墜落する事故が起こってしまいました。パイロットは、緊急脱出することなく、亡くなりました。その事故が起こって間もなく、中川さんは名古屋に着任しています。ですから、この事故は、中川さんにとってまったく他人ごとではありませんでした。もし、自分がこの機に乗っていたら、どうしていたか、考えさせられたことでしょう。
 中川さんや門屋さんだけでなく、航空自衛隊パイロットは、こうした事故を自分のこととして受けとめ、たとえば死についても考え、パイロットとしての任務にあたるようになるのです。
 自衛隊が組織として、「事故の時は、こうしなさい」 とあれこれ強制することはないそうです。しかし 「地上に被害を与えて、自分が助かってしまうのは潔しとしない」という覚悟が、しだいに芽生え、自分の中で育まれていくのだそうです。
 Kさんは、中川さん、門屋さんの最後の心境について、次のように語りました。

 「あくまで推測だけれども、・・・・ベールアウト自体、初めての経験だから、そのときの緊張は最高度だったと思う。ただ、ボイスレコーダーに記録された声を聞くと、とても落ち着いていますよ。・・・・もうここまでやった。・・・・これ以上は・・・・、あとは天に任せる、という心境だったのじやないかと。
 だから、民間に被害を出さないように、かといって、高度的には(無事に脱出するのは)難しいとは判っていたけれど、自分自身も生きることに最大の努力を払っただろうと思います。
 このような行動は、日本人のDNAの中にあるのではないかと思います。「武士道」というか・・・長い時間をかけて歴史の中でつくりあげた日本人のメンタリティー(精神性)、あるいは国民性と言ってもいいかもしれない。
 この事故については、よく「自己犠牲」と言われているけれども、彼らはそんなことすら意識していなかったのでしょう。私はそう思う。利他の精神(自分のことを顧みず、他の幸福を願う心・他の利益を優先する精神)だと思います。ただ自分を犠牲にすればいいというのではない。誰からも強制されず、人のために行動する。これは日本人が、ずっと歴史を通して人間関係の中で育んできたことです。だから、おそらく中川も、最後まで自分も生きようとしながら、ほんの一寸の差で生きられなかったんだなと思います。
 それから、これは何も中川だけでなく、多分、航空自衛隊のパイロットは、みな思っていることだと思う。あえて口に出しては言わないけれど。多分、皆さんも同じような状況におかれたら、自衛官でなくとも同じように行動するのではないかな・・・・私はそう思います。
 日本の今の若者は・・・と云々されるけれど、そういう環境の中で過ごせば、自然にやっぱり考えることですよ。日本人の国民性といいますか、それなりに行動はできると思っています。」

 事故から6日後、新聞投書欄に狭山市の主婦の一文が掲載されました。

「特攻で操縦経験のあった父から、自衛隊の飛行機は必ず河原に落ちてくれるから大丈夫と聞かされていました。今回はまさにその通りです。切れた送電線のすぐ近くで、小学生の娘は遊んでいました。中学校には息子がいました。でも、みんな無事でした。・・・・亡くなった自衛隊員の方には感謝しています。・・・・翌朝、橋の上から事故現場を見ていた一人のご老人が合掌されていました。私も同じ気持ちです」。

 戦前、戦争中を通して、今回の事故と類似した事例が数多くありました。なかには、海外で日本人の名声を高めたものもあります。
 イギリスで「空の英雄」と呼ばれ、多くの家庭で道徳の教材とされた小林淑人(よひと)大尉がいます。
 昭和5年4月17日、イギリスに留学中の小林大尉はロンドン市街地の上空を飛行していました。
 そのとき突如エンジンが故障して火が噴きだしたのです。落下傘で脱出しようにも、下は人家の密集地です。小林大尉は、操縦桿を握る左右の手を焔(ほのお)で焼きながら、懸命に耐えて乗機を人里離れた原野まで導き、ようやく機外に脱出しました。かろうじて一命をとりとめたものの、全身火傷で瀕死(ひんし)の重傷を負いました。
 この事故がイギリスの新聞に掲載されると、小林の入院する病院に市民からのレターや表敬の見舞いが殺到しました。ロンドン市街に被害を出さぬよう務めた彼の行動は、日本海軍軍人の評価を大いに高め、イギリスの家庭では、母親がこの美談を子どもに教え、道徳的教材としたのです。

 また、台湾の台南市の郊外に、「鎮安堂飛虎将軍廟(ちんあんどうひこしょうぐんびょう)」があります。そこに「飛虎将軍」という「神」として奉られているのが、日本海軍の杉浦茂峰少尉です。
 昭和19年10月12日、アメリカ軍機が台南へ来襲し、日本の零戦は、数を頼むアメリカ軍機に一機また一機と撃墜されていきました。そのなかの一機の零戦が尾翼から発火し、落下していったのです。このまま落下すれば、海尾の町は大火事になります。そのとき、零戦は機首を上げて上昇し、海尾の町をはずれ、畑の方へ飛び去って墜落しました。杉浦少尉はそこで脱出しましたが、アメリカ軍の機銃掃射を浴びて戦死したのです。このとき杉浦少尉がとった行動の一部始終を海尾住民は目撃していました。その後、住民たちは身を挺して海尾の町を戦火から救った杉浦少尉の為に、永久にその恩徳を顕彰することを衆議一致で決議しました。現在に至るまで、廟内には、少尉の神像とともに、遺族から送られた遺影が飾られ、村人たちは毎日、朝には「君が代」、夕方には「海ゆかば」を歌ってお祀りしています。廟を管理する曹氏は「少尉は命がけで村を守ってくれた。今度はわれわれが神となった少尉を守るのだ」と話しているのです。

 新聞の投書にある「自衛隊の飛行機は必ず河原に落ちてくれるから大丈夫」、そして「亡くなった自衛隊員へ感謝しております」と言う言葉は、このような歴史的な背景に由来するのです。

 平成11年11月25日、殉職された中川さんと門屋さんの葬送式が航空自衛隊の入間基地飛行場地区で行われました。遺族代表として、中川さんの弟さんが挨拶に立ちました。弟さんは、自衛隊関係者が「あと3秒早く脱出していたら助かっただろうが、3秒遅ければ、民家に突入してしまっていただろう」と話すのを聞いて、声を詰まらせながら、次のように語りました。

 「私には自慢できるものがありました。小さい頃から憧れたパイロットを兄にもつということです。兄の死に遭遇し、今後はもっと自慢できるようになった。」

 門屋さんのお兄さんは、「今回の事故でマスコミでは、故人の尊い犠牲よりも都会の停電が大きくとりざたされた。わが国の防衛に命を懸けてきた故人は何だったのか、とやるせなさを感じた」と言いました。

 最後に一枚の写真を紹介しましょう。
 亡くなった中川さんが、平成10年、福岡県の第8航空団にある第6飛行隊の隊長をしていた時、彼の隊が、航空自衛隊の戦技競技会(パイロットの技量を競い合う大会)で優勝しました。これがその時の記念写真です。
 しかし、実は、この記念すべき写真の中に、中川さんの姿はありません。この時、「参加者全員の記念撮影を」という雑誌記者のリクエストに対して、中川さんは、「優勝できたとしたら、それは整備員のおかげ。彼らを撮ってやってほしい」と言い返して整備員全員の撮影となったということです。

 写真のなかに、中川さんの姿はなくとも、中川さん自身がよく伝わる写真ではないでしょうか。

(出典:「歴史と教育 第136号(平成21年9月号)」自由主義史観研究会)

(「空の武士道」終り)

(いえむら・かずゆき)

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