トーチ作戦とインテリジェンス(21)

2019年2月6日

【前回までのあらすじ】
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である。
数回にわたり情報調整局(Office of the Coordinator of Information,;OCI)が行った北アフリカ地域の諜報活動について述べてきた。
連合国による北アフリカへの侵攻作戦が成功するためには英米の密接な協力が不可欠である。しかし、北アフリカにおけるインテリジェンス活動の指揮権をめぐって英米両国の間で対立があった。米国よりもインテリジェンス活動の経験が豊富な英国は、北アフリカにおけるインテリジェンス活動の指揮権を持つことを希望していたのだ。
この争いは、最終的に北アフリカは、ドノヴァン=ハンブロ協定として知られる合意により、戦略情報局の縄張りとなった。ドノヴァン=ハンブロ協定は、特殊作戦執行部と戦略情報局による特殊作戦を進めるための枠組みとしてつくられたものであり、英国と米国の作戦地域を定めたものであった。
ドノヴァン=ハンブロ協定には裏があった。メルセルケビール海戦以降、英仏関係が悪化し、フランスがフランス領北アフリカにおける英国人の活動を禁止していたため、英国はロンドンに亡命していたポーランド政府のインテリジェンス能力を利用してアルジェリアおよびフランス領モロッコにスパイ網を作り上げていたのだ。
ドノヴァンが当時知っておらず、英国も明らかにすることを望んでいなかったことであるが、この英国のアフリカ機関は北アフリカで作戦活動中であり、情報調整局が収集することを要求されていた情報の大部分を提供することができたのである。
しかしながら、英国は米国に譲歩をした。英領ジブラルタルに駐在するブライアン・クラーク大佐が指揮する英国の地中海地域における秘密情報・特殊作戦組織は、英米間の協定により、情報調整局の管轄下に置かれることになったのである。
では、英国のアフリカ機関の活動はどのようなものであったのだろうか。今回からは、視点を変えて、アフリカ機関を中心とする英国のインテリジェンス活動について述べてみたい。
【フランス領北アフリカで諜報活動を行いにくかった英国】
ヴィシー政権との協定により英国は、諜報員をフランスおよびその植民地領には派遣できない。英国は、この難問をどのようにクリアして、インテリジェンス・ネットワークを形成したのであろうか。この問題を解くカギは、一人のポーランド人にあった。
1941年7月、英国は、アルジェリアを拠点とする、フランス領北アフリカにおける秘密インテリジェンス・ネットワーク確立のために一人の男を送り込んだ。
1940年7月初めのメルセルケビール海戦以後、英国とヴィシー政権との関係が険悪な状態となり、英国とヴィシー政権間で、フランスおよびその植民地領からすべての英国官吏および諜報員を退去させることを内容とする協定が結ばれたことは本連載で既述した通りである。しかし、この男のフランス領北アフリカ行きは、この協定を違反したことにはならなかった。
というのも、この男はポーランド人であって英国人ではなかったからだ。この男が属するポーランド政府はヴィシー政権とは上記内容の協定を締結していなかったため、この男が英国政府の依頼によりフランス領北アフリカに入国したとしても、英仏間の協定を違反したことにはならないのだ。
そして、この男の手により、フランス領北アフリカにおける英国のインテリジェンス・ネットワークがつくられたのである。このインテリジェンス・ネットワークのメンバーの大部分はフランス人であったが、職業的にはフランス軍の将軍たちから港湾労働者まであらゆる階層が含まれており、民族的にもフランス人だけにとどまらずアラブ人にまで及んでいた。
【従来のトーチ作戦研究の問題点】
インテリジェンス関係に多少詳しい人なら“ワイルド・ビル”・ドノヴァン率いるOSS(戦略情報局)がトーチ作戦の舞台裏で活躍したことは既知のことであったろう。さらに、日本における研究者によるインテリジェンス研究でもトーチ作戦とOSSとの関係はよく言及されることがあるテーマだ。
しかし、日本におけるインテリジェンス研究では、これまであまり注目されてこなかったが、英国のインテリジェンス・ネットワークがトーチ作戦に与えた貢献度は実はかなり高いものがあった。
この英国のインテリジェンス・ネットワークは「アフリカ機関」と呼ばれるが、その創設者およびアフリカ機関の幹部たちの主張によれば、米国のOSS側の記録や、トーチ作戦の計画立案・実行に携わった主要人物によって書かれた回想録の記述とは正反対に、アフリカ機関は、1941年7月から1942年12月かけての時期にかけて展開されたトーチ作戦実施のためのインテリジェンス活動においてとても価値のある働きをしたのだという。
【たいまつ(トーチ)に火をつけた男 ~スロヴィコフスキーの登場~】
冒頭より「この男」で通してきたが、この男の名はM・Z・“リガー”・スロヴィコフスキー(M・Z・“Rygor” Slowikowski)という。
スロヴィコフスキーは、1866年に、後に帝政ロシア領の一部となるポーランドのジャズガゼフ(Jazgarzew)でうまれた。彼は1918年にポーランド軍に入隊し、ポーランド=ソヴィエト戦争(1919年~1921年)に従軍した。1925年に陸軍大学校を卒業したスロヴィコフスキーは、参謀本部で勤務した後に国防省に勤務し、ポーランド第一軍の編成動員に関する職務に従事した。国防省勤務時代には、ポーランド軍創設者であるユゼフ・ピウスツキの秘書官にもなっている。
1937年、彼は外務省に移り、ソヴィエト・ウクライナの首都キエフのポーランド領事館の書記官となった。しかし、書記官の職は仮面に過ぎず、実際の彼の任務はポーランド軍参謀本部第二局のために南部ロシア地域の情報を収集することであった。四周を強力な国家に囲まれていたポーランドでは、脅威に対処するためにインテリジェンス機関が発達しており、戦間期にインテリジェンス活動が不振だった米国とは対照的に、戦間期のインテリジェンス活動が盛んであったのである。
ドイツおよびソ連軍のポーランド侵攻により祖国が崩壊すると、彼は妻子を伴ってフランスに逃れ、フランス国内のポーランド軍で勤務した。1940年6月に、フランスがドイツに降伏すると、彼はフランス領内からポーランド軍将兵を国外に脱出させるための機関を組織すると共に、ドイツに占領されたフランス国内でインテリジェンス・ネットワークを組織し、入手した情報をロンドンの亡命ポーランド軍当局に送る活動に従事した。
1941年5月、ロンドンの亡命ポーランド政権は、彼にフランス領北アフリカでインテリジェンス・ネットワークを作るように命じた。この時のことを彼は回想録の中で以下のように描写している。
「1941年5月1日、ポケットにロンドンのラジオ・メッセージを入れてチューダーから自宅に戻るとき、私は自分の人生における新たな一章が始まったことを知った。
彼らは私にとても大きな任務を与えたのである。その任務とは、とても広い領域で、完全に独力で、そして可能な限り短期間で、ゼロから広範囲に及ぶネットワークを作り上げるというものであった」。(M・Z・スロヴィコフスキー、ジョン・ヘルマン『シークレット・サービスで勤務して ~たいまつに火を点けて~』。原題:“In the Secret Service: The Lighting of the Torch”)
こうして、1941年7月、彼は、日本人の間では無名であるが第二次世界大戦で最も成功したインテリジェンス機関の一つであるアフリカ機関を組織するために、アルジェリアへと向い英国をあとにしたのだ。
この時、彼につけられたコードネームが厳格なを意味する「リガー」(Rygor)であり、彼の機関につけられたコードネームが「アフリカ」であった。
一般にこの種のインテリジェンス活動は記録が残りにくいのであるが、彼は、軍で受けた情報将校教育で学んだことに反して、ロンドンの官僚主義から自分自身の身の安全を図る手段として、ロンドンから受けたメッセージの目録および金銭出納簿の形式で自身の活動に関する日記をつけていた。これが、先に登場した彼の回想録『シークレット・サービスで勤務して ~たいまつに火を点けて~』執筆の際に使われ、戦史研究者に格好の資料を提供している。
次回からは、アフリカ機関の活動を具体的にみていこう。
(以下次号)
(ちょうなん・まさよし)