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一寸 ・・・いや、相当古い話 :国民年金の花柳な生活

time 2013/07/16

キ44 二式単座戦闘機「鍾馗(しょうき)」

キ44 二式単座戦闘機「鍾馗(しょうき)」

2011.10.22 Saturday23:47

 戦争末期の学徒動員で、飛行場建設作業に従事した事は何度も書いているが、単調な作業が続く中で、時々、思わぬ出来事に出会う事があった。目の前で練習機が墜落したのは痛ましい思い出だが、思わずニヤリとする様な出来事もあった。

私達が動員された頃は滑走路の半分は完成しており、早朝から練習機による猛訓練が行われていた。陸軍は海軍と違って約2年分の燃料を確保していたというから、その所為でもあろうか、訓練で離着陸する練習機の数は相当なものだった。機種は「赤トンボ」と呼ばれる複葉の初等練習機である。

 ある日の事、突然、上空から黒い悪魔の様な物体が現れたと思う内に、あっという間もなく滑走路に侵入して来たのである。物体は飛行機だった。大きな発動機は「赤トンボ」の小さなエンジンを見慣れている我々の目には異様に映った。

「敵襲っ」と誰かが叫ぶ。近くにいた工兵隊長が、「伏せろっ」と命令したので、私達は持っていたスコップを放り出し、その場に伏せたのである。一瞬、頭に浮かんだのは通学の途中、グラマンに襲われたクラスメートの話であった。急降下しながら機銃弾を浴びせる敵兵の顔がハッキリ見えたという。地面に顔が埋まるほど伏せていると目の前を着陸した飛行機が通り過ぎて行った。

胴体に日の丸をつけた戦闘機だ。「鍾馗だ」と私は思った。「隊長殿。友軍機であります」「人騒がせな奴じゃなあ。連絡もなかったぞ」と言う隊長のボヤキ声が聞こえる。

 「鍾馗」の実物を見るのは初めてだったが、大馬力のエンジンなので、頭が大きく、風防から後ろの機体は急に細くなった独特の姿で、如何にも強そうな感じがした。機体には,それまでの様に翼に赤い丸だけを描いたものではなく、四角い白地の上に赤い丸が描かれていた。日の丸の旗の赤丸だけを大きくした様な感じである。

何の用事で飛んで来たのか、燃料切れか、それとも故障を起こしたためなのか、私達には何も知らされなかったので、いろいろな憶測が飛び交い、隊長は「伏せろっ」と言ったのではなく、「逃げろっ」と言って、自分が真っ先に逃げ出したのだ、などと言う者もあり、皆ニヤニヤしたが、真相は闇の中だった。

 陸軍の戦闘機では「隼」が最も多く生産され、活躍の場も広くて有名だが、「鍾馗」も「隼」と同じ中島飛行機の設計・生産による戦闘機で、設計者の一人であった糸川英夫さんは『帝国陸軍の戦闘機の歴史の中で多かれ少なかれ、エポックと見なされるものが二つあげられるであろう。キー27(97戦)とキー44(鍾馗)がそれである。』と言い、「鍾馗」が優れた生い立ちであった事を述懐している。

「97戦」は字の通り皇紀2597年(西暦1937年=昭和12年)に正式採用された固定脚の単座戦闘機で、ノモンハン事件ではソ連空軍を圧倒し、制空権を確保した。当時の空中戦は「格闘戦闘(ドッグ・ファイト)」である。

 「格闘戦」というのは互いに機体を上昇、急降下、横転、反転、或いは宙返りなどをしながら敵の後ろに回り、機銃弾を浴びせて撃墜するという戦法で、その技術は激しい訓練を経なければ身に付ける事は出来ないが、その前に運動性能の優れた戦闘機が必要である。「97戦」は、その格闘戦能力が抜群であった。それにも増して搭乗員の錬度が並のものではなかったから、ソ連空軍はお手上げの状態だったのである。

しかし、戦いの末期頃には新しい機種が現れ、新しい戦法を用いて反撃を始めた。イー16がその代表である。イー16は大馬力のエンジンを持ち、高速、重装備の上に搭乗員を護る装甲も付いていた。こういう機種を重戦闘機と呼んだが、格闘戦などには向いていない。戦法は高速を利用して、敵より高い位置に付き、編隊を組んで急降下。搭載している重装備の機銃弾を敵機に叩き込むと反転、離脱する「一撃離脱」戦法である。

 これは格闘戦の様に厳しい訓練を重ねた上、更に相当の経験を積まなくても、つまり、駆け出しの若い搭乗員でも簡単に身に付ける事が出来るから、多数の搭乗員を必要とする戦時には有利であった。ヨーロッパの戦場ではドイツも連合国も代表的な戦闘機は皆重戦闘機になっていた。「鍾馗」はそういう流れの中で誕生したのである。

一撃型の重戦闘機は主翼の面積が格闘型に比べると小さくなっている。要目表で見ると「隼」の主翼面積が、21,4平方米であるのに対し「鍾馗」のそれは僅か15平方米である。これは当時の盟邦ドイツが誇る「メッサーシュミットMe109」の16平方米よりも1平方米小さかった。

ドイツから派遣されて来ていたテストパイロットは「鍾馗」に試乗した後で「もし日本の搭乗員が訓練してこの戦闘機を使いこなしたら、世界一の戦闘機隊になるだろう」と言ったという。戦後、米国の調査団も「鍾馗」の性能には高い評価を与えている。

 この様に技術に詳しい専門家達は口を揃えて賛辞を惜しまなかったが、現場の搭乗員には人気がなかった。一つには着陸の際に視野が狭い事などを始め、操縦の難しさもあったが、それよりも空の勇士達が望んだのは格闘戦での能力であった。

腕自慢のベテラン搭乗員としては、急降下して一撃するだけの戦法は心善しとしないものがあったのであろう。この心理は陸海軍に共通したもので、海軍にも局地戦闘機「雷電」があったが「鍾馗」と同じ様に冷や飯を食わされている。

それは兎も角、誕生当時の「鍾馗」は最高速度615km/hで「隼」の576km/hを凌ぐものだったが、空戦の高度を5千米くらいに想定して設計されていたから、戦争末期の1万米近い高高度の空中戦では役に立たず、専ら特攻用に使用されたという悲しい記録もある。

「鍾馗」はノモンハン事件を背景に新思想で設計されたもので、格闘戦の流れを汲む「隼」よりも先に生まれているが、正式採用された時期が遅かった為に「2式」戦闘機となった。「隼」は1式(皇紀2601年=昭和16年)である。

 なお、この後、陸軍は3式「飛燕」、4式「疾風」、更に「飛燕」の液冷式エンジンを空冷星型エンジンに換装した「5式」戦闘機を送り出している。何れも高性能の名機であったが、資材不足と底の浅い日本工業の非力は如何とも成し難く、カタログ通りの性能は発揮出来なかった。

高度7千米で時速680kmを出した4式戦「疾風」などは、米軍も絶賛する名機だったが、脚が弱く、機体の重量を支えきれなくて折れる事が多かった。比島決戦に備えて内地から80機を送り出したがフィリピンの基地に着陸出来たのは14機だけであったという、ウソの様で本当の話もある。

(高志)

国民年金の花柳な生活
http://karyu-seikatu.jugem.jp/?eid=2297
より転載



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