朝鮮戦争における「情報の失敗」 ~1950年11月、国連軍の敗北~(6)

2019年2月6日

(C)Department of Defence April 15, 1953. M. Sgt. Eugene C. Knauft. (Marine Corps)□はじめに ~前回までのあらすじ~
CIAによる中国の意図と能力の分析について、CIAが出した報告書を中心に考察してきた。CIAの報告書は11月8日にNIEが出されるまで、中国の意図と能力に関して、ウィロビー率いる極東軍司令部参謀第二部(G2=情報部)の評価ときわめて類似したものであった。
極東軍司令部参謀第二部もCIAも中国人部隊が満州に大規模集結中であることは正確に認識していたが、CIA報告書は中国が朝鮮戦争に参戦する可能性を低く見積もるという致命的ミスを犯していた。さらに、CIAは、10月中旬に潜在的な中国の戦略目的を認識していたにもかかわらず、11月8日にNIEを出すまでウィロビーの予測分析を自らの機関の報告書に反映させ続けた。そして、NIEによる予測分析とウィロビー率いる極東軍司令部参謀第二部による予測分析とが見解を相違させる大きな分岐点となったのが、11月8日付の「国家情報評価(NIE:National Intelligence Estimates)」であった。
しかしながら、CIAが朝鮮半島において決定的行動に出ることを警告したにもかかわらず、ウィロビーは中国が国連軍の攻勢作戦に対し重大な脅威を与えないという認識を持ち続けたため、マッカーサーとその幕僚は人民義勇軍の急襲を受け大いに狼狽することとなるのである。
なお、以下の文中では、人民解放軍と人民義勇軍の記載があり表記が統一されていないが、朝鮮戦争に参戦したのは、人民義勇軍である。この名称は、ソ連から朝鮮戦争不拡大の方針を示された中国政府が、参戦する人民解放軍を「人民義勇軍」の名称で投入したことに由来する。そのため、基本的には人民義勇軍を使用し、史料として使った報告書類で人民解放軍が使用されている場合は、人民義勇軍と修正せずに、原文のまま人民解放軍と表記した。
▼「忠臣」ウィロビー、自己の信念を変更せず
北朝鮮領からわずか数キロの距離しか離れていない満州に展開する人民義勇軍の戦闘能力が向上しつつあるという戦略的警告も、1950年の終わりまでに北朝鮮軍を撃滅し、朝鮮半島を韓国政府の統治下で「統一」するというマッカーサーの断固たる決心を抑制させることができなかった。
朝鮮半島西部で、ウォルトン・ウォーカー中将率いる米第8軍が平壌から北朝鮮北部へ進撃し、中国領の安東と境界を接する北朝鮮領の新義州に向け前進していた。
一方、朝鮮半島東部では、マッカーサーの寵臣エドワード・アーモンド少将率いる米第10軍団が北朝鮮東部の沿岸都市・元山から北朝鮮領内の荒廃した山岳地域の真っただ中を通過し鴨緑江目指して北進中であった。
もし、ウィロビーが「中国は参戦しない」と決め込むことなく、彼の頭の中で中国の戦略的意図が不明確なままであったならば、米第8軍および米第10軍団から東京の極東軍司令部第二部に入電する戦術レベルの情報は、ウィロビーをして、中国の警告はレトリック以上のものであり、参戦を「予言」しているものであるという正しい結論を導きさせることにつながったであろう。
しかし、現実には、マッカーサーの「忠臣」ウィロビーは、自己の出した結論に反する情報が入ってきても「中国は参戦しない」という信念を変えることはしなかった。
▼韓国軍第1師団、人民義勇軍と交戦する
10月20日、米第8軍が平壌の北方へ向け進撃を開始したが、北朝鮮軍の抵抗はあまりなかった。しかし、北朝鮮軍の抵抗が少ないことは、①北朝鮮軍がもはや防衛戦闘すら展開不能であることを示唆するだけではなく、②経験豊富な野戦軍指揮官たちのうちの何人かに不気味な静けさを感じさせるものでもあった。
韓国軍第1師団を率いる白善燁はあることに気付いた。韓国軍が雲山に接近するにつれ、初期の頃の進撃時と比較して、これまであまり姿を見せなかった北朝鮮軍部隊や北朝鮮人の難民が姿を見せ始めるようになったというのである。
10月25日、白善燁の懸念が正しかったことが証明された。この日、韓国軍第1師団は敵軍の頑強な抵抗に遭遇し、雲山の北方で敵軍からの反撃を受けたのである。この日の戦闘は、北朝鮮領に進撃して以来、白善燁が経験してきたものとは全く異なるものであった。
すなわち、韓国軍第1師団を攻撃した敵軍は機関銃射撃と巧みに協同した精確な迫撃砲射撃を行ったのである。さらに、敵軍は韓国軍第1師団に対し包囲攻撃を実施し、巧妙にも後方から韓国軍第1師団を包囲しようとした。
この攻撃を受けた白善燁師団長は、韓国軍第1師団がかなりの数の中国軍部隊と交戦中であると認識した。そして、この日の戦闘の過程で、韓国軍第1師団は中国人の捕虜を捕らえた。
▼中国人捕虜に対する尋問
この中国人捕虜に対する予備尋問で、この兵士が大規模で展開する人民解放軍所属の一兵士であることが判明した。さらにこの中国人捕虜は尋問官の尋問に対し、自身とその同志が米国の中国侵略を阻止するために朝鮮半島に派遣されたと話した。
さらに、この捕虜はこれまで捕まえられていた北朝鮮人兵士と比較してより良質の被服を着用していた。
この報告を受けた師団長の白善燁は直接この捕虜を尋問することにした。この捕虜は白善燁の尋問に対し、自身が広東省から来た人民解放軍の正規兵であることを喜んで自白した。さらにこの捕虜は、何万もの中国人兵士がこの附近の山々に所在していることも話した。
この尋問から正式な尋問報告書が作成され、この報告書中には、この中国人捕虜と彼が所属する人民解放軍部隊が、いつ頃、どのようにして北朝鮮領内にやってきたのかについてより詳細な記述がなされた。
この捕虜が所属していた部隊は、中国領の安東から行軍を開始し、最近になって架けられた木橋で鴨緑江を渡河し、10月19日に北朝鮮領内に入った。尋問報告書には、国連軍の情報活動を妨害する目的で人民解放軍が講じた秘密保護のための欺騙手段についての記載もある。
同報告書によれば、人民解放軍の将校は、もし兵士らが不運にも捕虜になった場合、韓国語に流暢でない限り何も話さず黙秘を貫けと命じたという。同報告書はさらに、中国人捕虜は10月5日に支給された北朝鮮軍の軍服を着用しており、より不吉なことに、人民解放軍将校が兵士たちに向け、60万人の人民解放軍兵士が米軍を撃破するために準備中であると話したと、述べている。
▼尋問報告書を受領したウィロビーの反応
韓国軍第1師団を隷下に有する第1軍団司令部は、直ちに、米第8軍司令部を通じて日本に所在する極東軍司令部第二部にこの情報を伝達した。
ディヴィッド・ハルバースタムの『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』によれば、この情報を受領したウィロビーの反応は、中国人捕虜は中国領に居住する「北朝鮮人」の可能性が高いとして、人民解放軍が朝鮮戦争に介入した明白な証拠に反論するというものであった。
極東軍司令部第二部が中国人捕虜の国籍問題に関して懐疑的立場をとった背景には、ウィロビーが、北朝鮮軍が中国の国共内戦に人民解放軍と共に参戦していたと評価分析したことがあった。その捕虜は人民解放軍で国共内戦に従軍した北朝鮮人ではないのか?ウィロビーはそう考えたのである。
尋問官による中国人捕虜に対する評価は、捕虜が提供した情報は「かなり信用できる」と結論づけており、捕虜が現実に中国国籍であるという第1軍団の判決を裏付ける内容のものであった。
一方、ウィロビーが捕虜は中国人に化けた北朝鮮人であるという自己の論理の正しさを正当付けることが可能な根拠は、この捕虜が北朝鮮軍の制服を着用しており、「部隊の極めて少数が北朝鮮人の人民解放軍兵士」であるという供述を残していた点にあった。
この捕虜は北朝鮮が国共内戦に送り込んだ北朝鮮人であるという結論に到達するために、ウィロビーとその幕僚は、この捕虜が1949年に中国国民党軍に入隊し、1950年2月に人民解放軍の捕虜となり、十分な訓練を受け人民解放軍第40軍と共に満州に向け行軍したと書かれていた尋問報告書の箇所を意図的に見落としていた。
尋問情報に対する不信感は戦線から離れた東京の極東軍司令部だけではなく、朝鮮半島に所在する米軍司令部内にも存在した。
北朝鮮領内で国連軍に捕らえられた最初の中国人兵士により提供された詳細な供述内容や、韓国軍第1師団に攻撃を仕掛けた敵軍が示した熟練した戦術能力の高さといった徴候にもかかわらず、米第8軍司令部第二部(情報部)のターケントン中佐は、10月26日の報告書の中で、「しかしながら、朝鮮半島において人民解放軍の一部が介入したということを示す徴候は存在しない」と結論づけていた。
ターケントンのこの評価は、中国人兵士が捕虜になった翌日に書かれた点を考慮すると、徹底した裏づけ証拠が必要な情報部の報告書という性格上、技術的には正しかったのかもしれないが、もし中国人捕虜の供述内容が正しい場合の潜在的脅威に対処したとはいえないものであった。
▼さらに増える中国人兵士の捕虜
白善燁により尋問された捕虜の他に、10月25日から11月1日にかけて、韓国軍は清川江周辺でさらに多数の中国人兵士を捕虜にした。
10月26日、第164軍事情報部隊に所属するある少尉は、前日に雲山周辺で韓国軍に捕らえられたばかりの中国人兵士を尋問している。
この少尉は、G2の尋問官が戦争捕虜の尋問用に開発した「情報主要素」(EEI:Essential Elements of Information)と呼ばれる質問リストを使って中国人兵士捕虜を尋問した。
この尋問により得られた供述を基に作成された報告書は、第40軍所属の50万~60万人の中国人部隊が朝鮮半島に所在していると指摘していた。
この中国人捕虜は、ソ連製のT-34/85戦車20両が10月15日に鴨緑江を渡河し北朝鮮領内に入ったのを目撃したことを認めていた。捕虜の供述によれば、15日の深夜、人民解放軍第40軍が中国領の安東から木橋を使って鴨緑江を渡河し北朝鮮領内の新義州に入ったという。この報告書は、北朝鮮領内に入る前に兵士に北朝鮮軍の制服が支給されると共に、米空軍機による探知を回避するために夜間行軍を実施するという人民解放軍が採った偽騙手段を報告していたが、この記述は韓国軍第1師団が捕らえた捕虜に対する尋問結果を基に作成された報告書での記述内容と一致していた。
▼捕虜の尋問報告を無視した米国務省
10月25日の韓国軍第1師団の交戦情報や交戦の結果捕らえられた捕虜に対する尋問報告書が発生源となった中国介入の噂は、ワシントンの国務省関係者や軍関係者の間に広まった。しかしながら、北朝鮮に展開する国連軍が捕虜を捕らえたという報告に対し、国務省で中国問題を担当する専門家たちはあまり深い関心を持たなかった。
国務省東南アジア局に勤務していたジョン・F・メルビーは「中国問題の専門家たちはそれを嘲笑しただけであった」と回顧している。
国務省の中国専門家たちは「中国が朝鮮半島問題に関与するチャンスは少しもない。というのも、中国の問題はあまりに巨大すぎて、中国が朝鮮半島問題に介入できる可能性は今後数年間存在しないからである」と述べていた。
このことは、以前の連載でも言及したミラー・イメージがインテリジェンス・コミュニティーの中だけに限定されていなかったことを意味している。
国務省内の中国問題専門家たちは、中国共産党の外見上の国力の弱さを基準として使うことで、朝鮮戦争に介入する中国の意図と能力を評価したのである。
確かに、米国のような民主主義国では内戦後の国力が低い時期に大国との戦争を決断しない(できない)であろう。
しかし、1957年に「核戦争になっても別に構わない。世界に27億人がいる。半分が死んでも後の半分が残る。中国の人口は6億だが半分が消えてもなお3億がいる。われわれは一体何を恐れるのだろうか」という狂気に満ちた発言を残した毛沢東は、米国人のような思考法を持ってはいなかったのである。
(以下次号)
(長南政義)