武士道精神入門(10) –武士たちが遺した教え:山鹿素行『武教小学』–

2019年2月6日

▽ ごあいさつ
 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。
今回は「武士たちが遺した教え」の第六回目といたしまして、山鹿流兵学の祖・山鹿素行が「武士が幼少から守るべき日常生活の規範」を説いた『武教小学』を紹介します。
 これは「武士の一人ひとりがいかにして自己を治めるか」について、山鹿素行が常日頃から述べていたことを弟子たちが書物にまとめたものです。
 長文であるため、本メルマガでは主要な部分のみ抜粋して紹介いたします。なお、日本兵法研究会ホームページ「武士道精神」のコーナーに『武教小学』の全文を掲示しましたので、是非ご一読ください。
 日本兵法研究会ホームページ
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 それでは、本題に入ります
【第10回】武士たちが遺した教え:山鹿素行『武教小学』
▽武教小学序
 農業・工業・商業は、天下の三つの宝である。武士が農工商の働きもないのに、これら三民より上に位置づけられているのは、他でもない、自らの身を修め、心を正しくすることによって国を治め、天下を平和に保つからである。
 (中略)
 学問をするのは、物を格(ただ)して知を致す(執着せず、道理に徹して取捨選択し、今の世に適用させる)ためであって、異国の習俗を真似するためではない。ましてや、武士となるための道は、その習俗のほとんどを異国から学ぶ必要がない。日本の武の教えを幼児の時から習い、その習いが智恵と化し、心となるように目指したことこそが、先代の聖人たちの実体である。
 (中略)
 武士は君主からの俸禄で食っていながら、三民の長という身分にある。その業をなすのに相応しい外形、行為、知識を正しくするように努めなければ、「天の賊民」である。これは、人として最も恥ずかしいことである。
 (後略)
▽夙起夜寐(しゅっきやび=朝早く起きて、夜には寝る)
 武士としての作法とは、朝早く起きて、手を洗い、口をすすぎ、髪をなでつけ、衣服を正し、用具(刀、扇、火打袋など)を身に付け、気勢を充実させて平静を保ち、君主への恩と父母への情を一つのものと捉えて、今日の為すべき家業(代々の職業)についておもんばかることである。そして、この身体は全て父母から受けたものであるから、それを大切にしてあえて損なわないのが「孝」の始まりであり、一人前の人となって為すべき道を務め行い、後世にその名を残すことによって、父母の誉れを世に顕(あらわ)すのが「孝」の終わりであることに思いをいたすのである。
 その後、家事を示し、来客があれば面会し、君主に仕えるときは速やかに出仕し、父母の元に行くならば、機嫌を伺い、安否を察する。出仕したならば、自分の役職に専念して無責任なことは言わず、年長者や上位にある人は、父母のごとく敬い、謙虚な気持ちで人と争わない。
 文の道をもって友と会合して互いの志を助け合い、そうした友を我が人格の形成に役立てる。自分にとって有益な人を友とし、知らない事を問うて教わり、よく信じあい、偽らず、そして、常に武士としての正義を思い、怠らない。こうしたことが、朋友と交わる道である。
 仕官する者は、朝は人より先に出て、夕べは人より後に帰るようにせよ。帰宅後は、まず父母に逢って気持ちを平静に保ち、嬉しそうな声で父母を安堵させる。そして、暑くないか、寒くないか、体で具合の悪いところは無いかなどを問い、擦ったり掻いたりしてあげるのである。
 それから、居間に入って席に着き、留守の間にあったことを問う。急いでやるべきことと緩やかにやればよいことを判断し、それに応じて事を行う。
 今日なしたことを、よく我が身にかえりみて、過ちがあれば反省し、重ねてしないようにする。
 暇があれば、古来からの書物などを見て、武士としての正しい道について考え、義と不義の行いを知る。
 日がすでに没していれば、夜の警戒(防火や不測の事態への対処)をする。
 寝間に入って、気を休め、体をくつろがせ、家に仕えている士卒・下人にも体を安んじて休ませるようにさせる。
▽燕居(えんきょ=一日中、自宅に居ること)
 (前略)
 武士は君主に仕えていても、役職に応じてそれなりの時間はある。さらに、不幸にして未だ仕官が叶わず、あるいは父母が早く死没したり遠く離れたりして、朝夕の勤務を得ることがなければ、尚更のこと一日中、自宅にいることが多い。それに対してその志が怠惰であり、家業を慎まなければ、人としての値打ちがなくなり、ほとんど鳥や獣と同然になる。
 (中略)
 早くに朝食をとる。辰の上刻(午前8時)を朝食の時として、手を洗い、口をすすいだ後に、剣術、弓射、鉄砲、槍を習う。これらは皆、骨節を整え、身体を正しくする手法である。そのため、師匠の元へ行き、又は師匠を招聘(しょうへい)し、鍛錬を怠ってはならない。久しく怠れば、手足が自由に動かず、骨節が相応じず、身体も軽さを失って馴れず、武士としての適格性を欠くことになる。なお、時間があれば書を読み、武義を論じ、兵法の講義に参加し、武器についてよく見て嗜(たしな)むようにせよ。
 (後略)
▽言語応対
 言語や相手に対する受けこたえは、その人の意志に従うところのものであり、戯れに言ったことでも、その人の思慮から出てきたものである。武士の言語が正しくなければ、その行いも必ず乱れ、狡猾(こうかつ)なものになる。弱々しい物言いや、卑しく下品な会話などは、厳に慎まねばならない。
 (中略)
 武士がつねに語るべきことは、義と不義についての論、古戦場とそこでの名将・良将の偉業、古今の義勇の士の行跡、各時代の武義の盛衰などであり、これらについての議論を通じて今日の良くない点を戒めるべきである。
 (後略)
▽行住座臥
 (前略)
 武士たる者は、行く時も、留まる時も、座っている時も、臥せている時も、少しの間でも「武」の心を失うことがあってはならない。そうでなければ、非常事態が起きたときに必ず平常心を失ってうろたえ、その日まで怠らず勤めてきたことも、その一事において全て消滅してしまうのである。非常事態がいつ来るかを知ることはできないのだから、いかなる時も警戒を怠ってはならない。
 (後略)
▽衣食居
 粗衣や粗食を恥ずかしがり、立派な住居を好む者は、志士(道に志ある人物)ではない。
 衣服と食事と住居には、それぞれ分限(分相応のもの)がある。これら三つが分限を超えるならば、度量(程よくすること)と相違し、費用がかさんで財産が尽き、武備(刀剣や鎧甲など武士としての備え)に充当できなくなる。また、これら三つが分限に及ばないならば、志にも必ず吝嗇(りんしょく=卑しく、けちけちしている)があり、これまた正しいものではない。よくその節を守ることが、武士として大切な心がけである。
 (中略)
 食物は粗末なものや精米されていないもので用をなせ。ただ、士卒に与えるのと同じものを味わおうとすればよい。
 (後略)
▽財宝器物
 元来、財宝とは貧しい者に与え、貧しい者を救い、貧しくない者には与えず、又賢人を招聘(しょうへい)し、武士を集める為に用いるものである。器物というものは、今日の用事をなすのに不足が無ければそれでよい。
 武士たるの道は、その身を主君に委ね、死をもって道を完全に守るものである。これが古人の格言である。
 もしも財宝を惜しみ、器物を玩(もてあそ)ぶならば、武義は自ずから失われる。一大事に臨んで自分の家を忘れる事ができず、家のことを切に思うがゆえに、義を棄てて死を遁(のが)れ、人に謗(そし)られて祖先にまで恥を与えることになる。
 (後略)
▽飲食色欲
 飲食や男女というものは、人の大欲として存在する。飲食とは、身体を養い、礼節を行う為にある。色欲とは、子孫を嗣ぎ、情欲を適度に制限する為にある。人は皆、自然のうちに節度をもっている。
 武士は農工商の上に立つ「三民の長」であり、その家業はいよいよ重く、その職務は重大であるのだから、どうして慎まずにいられようか。
 (後略)
▽放鷹狩猟
 放鷹や狩猟には、太古の昔から行われていたやり方がある。
 田地耕作の害をなす鳥獣は、当然のことながら殺生すべきであるが、武士としてはこれに加えて、地形の様子(険しく狭い場所・遠いか近いか・山や川の形)を知り、諸所の風俗・巷のはやり歌・風説などを見聞してその時代の政務や民心を把握するのである。
 自ら水沢や山林に入り、矢玉や剣戟(ほこ)などの武器を用い、四肢を軽やかにして骨節を習わせ、士卒の人材を考え、兵士らの練度を閲するのであり、これらは武士として必ず勤めなければならないことばかりである。
 (中略)
 武士の為すことは、たとえ遊戯であっても全て「武」に根拠があり、その本と末を十分に計らなければ、粗暴に走ることになる。
▽与受・・・物や金を人に施(ほどこ)し、人から受けること
 施しを受けるということは、君臣上下の「義」であり、朋友相互の「礼」であって、武士が慎んで守らねばならないところのものである。
 (中略)
 受けることが道義的に正しいものであれば、物の軽重に依らず、これを受け取ってよい。
 義を欠き、道に外れているならば、いかに多くの俸禄であろうと、それが天下を譲るほどの重みがあろうとも、受けてはならない。
 (後略)
▽子孫教戒
 (前略)
 愛恵の情だけにとらわれ、誠の「勇」をもって戒めることができなければ、志のある士・仁をなせる人ではない。
 人が幼少の頃、その言動が気の向くままであるのは天然自然なことである。それは、まだ心の主がないからである。その頃から長い月日をかけて段々と習うことで、善と悪の分別が芽ばえてくる。その兆(きざ)しを慎重に観察するのである。
 (中略)
 また、子供を愛するだけで教えることがなければ、駄々っ子になってしまう。武士が子孫に教え戒めるのは、その知るところを正しくし、その兆しを勇ましくさせ、そのなす事を信頼できるものにさせるためである。
 それゆえに、知の発するに及んで正邪を考え、邪悪を戒めて正義を発揚し、勇気を養い、しかも、これがために恐れや威厳を手段としない。些細なことであっても、だましたり偽ったりしない。遊戯では必ず弓矢・竹馬により礼節を習わすようにし、言葉づかいも全て武士としての礼儀や謙譲の気持ちをもってさせる。
 (中略)
 人が生まれつきもっている気質は、それぞれ異なるものであるから、その軽重清濁を考え、教えや習わしに馴(な)れさせるのである。言語が通じる七歳ごろになったら、よく師を選び、友を考えて、品性を下げることがないようにせよ。
 (後略)
【解説】
 元和8(1622)年8月、会津で生まれた山鹿素行は、六歳のときから江戸で古典や兵学を学び、九歳から幕府儒官・林羅山(はやしらざん)の下で儒学を、十五歳から幕府兵学師範・小幡景憲(おばたかげのり)の門下で甲州流兵学を学んだ。さらに、十八歳からは神道や国学を学び、二十一歳のときには兵学師範の認可を受けた。
 三十一歳から、播州赤穂で藩主・浅野長直の家臣を指導するとともに、江戸で多数の書物を著した。その一つである『武教全書』は、三十六歳のときに著した代表的な兵法書であるが、この巻頭に記されていたのが『武教小学』である。
 山鹿素行は、四十五歳のときに自著『聖教要録』で幕府の官学・朱子学を痛烈に批判した罪により、江戸を追われて赤穂へ流謫(るたく)となる。赤穂ではひたすら学問と著述に没頭し、四十八歳のとき、日本の国体についての名著『中朝事実』を書き上げた。
 五十四歳で配流が赦(ゆる)されて江戸に戻り、浅草田原町に住んで、研究と著述と講義に晩年を送ったが、貞享2(1685)年9月、病に罹(かか)って六十四歳の生涯を閉じた。
 山鹿素行が唱道した武士道精神は、忠臣蔵で有名な大石内蔵助や幕末の吉田松陰、明治時代の乃木希典大将などに多大な感化を与えた。
 (「山鹿素行『武教小学』」終り)
(いえむら・かずゆき)
《日本兵法研究会主催イベントのご案内》
【第12回 軍事評論家・佐藤守の国防講座】
 演 題『日本を守るには何が必要か=日米”友好”と日中”嫌悪”の実態=』
 日 時 平成25年5月12日(日)13時00分~15時30分(開場12時30分)
 場 所 靖国会館 2階 偕行の間
 参加費 一般 1,000円  会員 500円  高校生以下 無料
【家村中佐の兵法講座 -楠流兵法と武士道精神-】
 演 題 第三回「『大楠公訓話』を読む(原文講読)」
 日 時 平成25年6月8日(土)13時00分~15時30分(開場12時30分)
 場 所 靖国会館 2階 田安の間
 参加費 一般 1,000円  会員 500円  高校生以下 無料
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