トーチ作戦とインテリジェンス(8) 長南政義

2019年2月6日

【前回までのあらすじ】
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である。
前回は、情報調整局の創設とその意義について述べたうえで、上陸作戦実施前に展開されるアドバンス・フォース・オペレーション(Advance force operations:AFO 敵地奥深くに潜入し情報収集や破壊工作などを実行する作戦)について説明した。
1941年7月11日、ルーズヴェルト大統領は、情報調整局創設を命じる大統領指令を出した。この情報調整局こそが、インテリジェンスを収集・分析し、大統領および政府の上級意思決定者にインテリジェンスを提供する責任を有する、米国発の中央インテリジェンス機関であった。さらに、1942年6月には、情報調整局が母体となり戦略情報局(OSS)が創設された。
情報調整局創設には重要な意義があった。情報調整局創設により、チャーチル首相が、情報源を危険にさらすことなく、米国にインテリジェンスを与える組織的枠組みが形成されたのである。
さらに、情報調整局創設から戦略情報局創設に到る一連のインテリジェンス改革の背後には、フランクリン・ルーズヴェルト大統領の隠された意図が存在した。すなわち、ルーズヴェルト大統領は、戦略レヴェルのインフォメーションを統制しようという野心を持つFBI長官エドガー・フーヴァーの野望を挫くため情報調整局や戦略情報局を創設したのである。
さらに、情報調整局創設当時、大統領が決断するために必要なインテリジェンスを収集・分析することを任務とする独立した中央インテリジェンス機関を持つことは、来るべき戦争のためにも必要なことでもあった。
インテリジェンス改革を実施するというルーズヴェルト大統領の決断が、英国と米国の情報機関同士の密接な協力関係を生み出した。1941年から1942年にかけて連合国のインテリジェンス機関がフランス領北アフリカで展開したアドバンス・フォース・オペレーションにより、1942年11月に実施されたトーチ作戦の計画立案者や作戦指揮官たちは、作戦を効果的に立案・実行するために必要な情報を入手することができたのである。
今回は米国の外交官がおこなった情報活動についてみていきたい。
【インテリジェンス研究で等閑視されてきた外交官による諜報活動】
ところで、インテリジェンスに関する先行研究では、あまりにも諜報機関が実施する諜報活動に重点が置かれており、その他の機関が実施する諜報活動が等閑視されてきた。しかし、トーチ作戦をめぐる諜報活動においては、米国の国務省が実施した諜報活動が重要な役割を果たしていた。
この点に関して、第二次世界大戦中にOSSで諜報機関の分析官としてのキャリアをスタートさせ、冷戦中のキューバ危機当時のCIA情報担当次官であったことで知られるレイ・クラインは、以下のように述べている。
「この時代で初めて外交官として登録された米国人は、カフェやカジノにおいて、他国の外交官や様々な諜報員たちと、インフォメーションの断片をめぐって競争している自分たちの姿に気づいた。数週間以内のうちに、これら副領事たちは、情報要件に応じる形で、ワシントンに説明的な報告書を送ることとなった。そして、その情報要件は、1941年6月に、ワシントンを訪問した英国海軍の諜報担当者イアン・フレミングによって、ルーズヴェルト大統領やドノヴァンに渡されたものであった」(『秘密、諜報員、学者たち―不可欠なCIAの青写真』。原題:Secrets, Spies, and Scholars : Blueprint of the Essential CIA)。
【トーチ作戦計画立案と実施に大きく寄与した二人の人物】
1940年6月初め、米国の大使とそのスタッフたちは、いまだにフランスのパリに所在する米国大使館に居住していた。6月の終わりまでに、ほとんどのスタッフは米国へ向け出国し、現地に残った外交官たちは、ペタン元帥とその政府とフランスに残るために、ヴィシーに移転した。
ヴィシーへ向けてパリを出発した米国大使館の上級外交官のうちの二人が、代理大使ロバート・D・マーフィーと海軍武官ロスコー・H・ヒレンケッター海軍中佐であった。彼ら二人と彼らが収集し本国に送ったヴィシー政権に関するインフォメーションが、ナチスドイツに対する米国最初の軍事行動となるルーズヴェルト大統領最初の軍事計画の策定と実施に大きく寄与した。
1940年夏の間、ナチスドイツのフランス占領は非占領地域に及ばず、占領地域はスペイン国境から離れていた。そのため、米国大使館のスタッフたちは、ヴィシー政府の指導者たちと外交的接触を維持し、信頼関係を発展させ続けることができた。
この激動の時代を通じて展開された効果的な外交活動が、フランス領北アフリカの侵攻作戦に必要な外交的・作戦的諸条件を生み出し、リビアのロンメルに対する第二戦線を形成させたのである。
【ヒレンケッターとは何者か?】
ところで、本連載で初登場となるヒレンケッター海軍中佐とはどのような人物なのであろうか。彼は、アナポリス海軍兵学校を卒業し、1946年には日本人にもなじみのある戦艦ミズーリの艦長を務めた人物である。また、1947年5月1日から1950年10月7日かけてCIA長官を務めている。
ヒレンケッターは、1940年6月終わりから7月初めにかけてフランス領北アフリカを旅行しているが、この旅行中に、第三共和制が崩壊し、ヴィシー政権への権力移譲が完了している。ヒレンケッターのフランス領北アフリカ旅行は、フランス領モロッコおよびアルジェリアのフランス軍と現地政府の情況を評価するために行われたものであった。
ヴィシーに帰還したヒレンケッターは、マーフィーと協力してヴィシー政権の政治・外交問題に関する評価報告書を作成した。ヒレンケッターによるフランス領北アフリカの情況に関する最初の報告書は、1940年8月にワシントンの国務省に送付された。
【ヒレンケッターがフランス領北アフリカ旅行で見たもの】
マーフィーは、自身の回顧録『戦士の中の外交』(原題:Diplomat Among Warriors )の中でヒレンケッターによるフランス領北アフリカ旅行と彼の報告が与えた影響について次のように述べている。
「ヒレンケッターは、彼が短期間の小旅行中に観察したことにより、驚愕し励まされた。ロンドンから放送されていた噂に反して、ナチスはフランス領アフリカをほとんど完全にフランス人の好きなように任せていた。ヒレンケッターは、フランス人が戦前と同じように領土を実質的に統治しているのとは反対に、少数のドイツ人領事と休戦委員会のイタリア人しか現地にいないと述べた。
さらに、われわれの海軍武官は、現地の軍事体制は彼が予想していたよりもはるかに強力であり、約12万5千人の現役兵と約20万人以上の予備役兵が存在するとも述べた。ヒレンケッターは、これらの経験豊富な陸軍・海軍・航空部隊の将兵たちはフランスの伝統的な敢闘精神を喪失していない、とも付言した。彼らはドイツとの休戦協定を受け入れ、ペタン政権に忠誠を誓っていたが、祖国の崩壊にもかかわらず、彼らのアフリカ帝国を防衛し統治する自信を持っていた。
ヒレンケッターはわれわれに次のように述べた。『現地の雰囲気はヴィシーにおける混乱とは比べ物にならないほど良い。もし、フランスがこの戦争においてどこかで再度戦うとしたならば、私は北アフリカこそがその場所になるだろうと信じる』。
彼はわれわれ全員に希望を吹き込んだ。そしてその希望は駐ヴィシー米国大使館がワシントンに送った報告書の中に反映された」。
【ルーズヴェルト大統領の注意を引いた駐ヴィシー米国大使館の報告書】
マーフィーとヒレンケッターは知る由もなかったが、ルーズヴェルト大統領は、この報告書と、その後にマーフィーによって作成されたヴィシー政権の現状に関する報告書に対し強い関心を示した。というのも、これらの報告書の記述は、ルーズヴェルトが心に秘めていた、フランスを支援し、時機が到来したならばドイツを攻撃するための準備計画を具体化するために必要な情報であったからである。
代理大使マーフィーと海軍武官ヒレンケッターが収集し本国に送ったヴィシー政権に関するインフォメーションが、ナチスドイツに対する米国最初の軍事行動となるルーズヴェルト大統領最初の軍事計画の策定と実施に大きく貢献したのである。
(以下次号)