トーチ作戦とインテリジェンス(6) 長南政義

2019年2月6日

【前回までのあらすじ】
本連載は、1940年から1942年11月8日に実施されたトーチ作戦(連合国軍によるモロッコおよびアルジェリアへの上陸作戦のコードネーム。トーチとは「たいまつ」の意味)までのフランス領北アフリカにおける、米国務省と共同実施された連合国の戦略作戦情報の役割についての考察である。
前回は、フランスの政治的キーパーソンの説明をした。なかでも、ダルランとジュアンの2人が重要であった。
フランソワ・ダルランは、英国嫌いで有名な人物であり、ヴィシー政権の有力者として、対独協力を推進した。しかし、時間の経過と共に、ダルランの胸中は動揺し始め、周囲からは、もし連合国が有利になったら、ダルランは勝者の側につくだろうと見られるようになっていた。ヴィシー政権下でダルランは海軍大臣および国防大臣を務めていたため、連合国が北アフリカ侵攻作戦を成功させるためには、ダルランの態度が極めて重要であった。
フランス領北アフリカのフランス陸軍総司令官アルフォンス・ジュアンは、ヴィシー政権との関係が強い人物であったが、枢軸国に対して反感を持っており、ドイツ軍がフランス領北アフリカに侵攻した場合の秘密作戦計画を準備していた。
フランス側の指導者のうち誰が味方で誰が枢軸よりかという問題は、トーチ作戦の計画立案および作戦実行の全期間を通じて、重要な問題であり続けた。連合国側のインテリジェンスおよび外交的努力は、この答えを見つけ出すことに集中されたが、答えを見つけ出すのは容易ではなかった。
フランス領北アフリカに関係する指導者たちの向背が不明であったため、北アフリカにおける連合国の戦略情報の収集は、困難を極めた。ヴィシー政権とこれら指導者たちとの間に存在した内紛は、枢軸国にとってはフランス領北アフリカの統制を容易にするという意味で有利な要素であったが、逆に連合国にとっては外交面でもインテリジェンスの面でも混乱をもたらす不利な要素であった。
今回は、トーチ作戦開始までの米国の動きについて説明する。
【大統領選挙に勝利するために中立を支持したルーズヴェルト】
 第二次世界大戦が始まった時、米国は中立を宣言した。孤立主義を強く支持していた米国民の間には「米国の青年を欧州での戦争で戦わせるな」という声が根強かったのである。
フランクリン・ルーズヴェルト大統領は、彼の政治キャリアにおいて最も困難な時期に直面していた。ルーズヴェルトは、米国大統領史上、ただ一人、四選された大統領である。初代大統領のジョージ・ワシントンが、三選を固辞したため、大統領職は二選までというのがそれまでの慣例だったが、ルーズヴェルトは、前例のない三選連続の大統領になることを企図して、1940年の大統領選挙に立候補していたのである。
なお、ルーズヴェルトは、1940年、1944年の大統領選挙に当選し、これがもとで、米国憲法が改正され、三選が禁止された。
1940年の大統領選挙当時、米国は、太平洋では日本の行動、欧州ではナチス・ドイツの行動に直面していた。当時、ルーズヴェルトは、本能的に米国がまもなく太平洋と欧州の両正面で戦争に巻き込まれることを悟っていた。
しかし、ルーズヴェルトは、1940年の大統領選挙に勝利するために、孤立主義者および米国民の大多数が支持する中立政策を公約として支持していた。その一方で、戦争に巻き込まれることを予想していたルーズヴェルトは、太平洋地域および欧州の両地方の戦争において米国が果たすべき役割を検討し始めていた。
【陸海軍合同情報委員会の設立】
ルーズヴェルトは、大統領選挙に勝利するや、米軍があらゆる種類の戦闘活動に対処できるようにするため、米軍の立て直しのための様々なプロジェクトに秘密裡に取り組み始めた。
このプロジェクトには、インテリジェンス機関の近代化も含まれていた。ルーズヴェルトは、米国のインテリジェンス機関のほとんどが、1898年に戦われた米西戦争で使われた諜報技術にいまだに固執していることを知っていたのだ。
第二次世界大戦中にOSSに分析官として諜報機関の分析官としてのキャリアをスタートさせ、冷戦中のキューバ危機の際のCIA情報担当次官として知られるレイ・クラインは、米国のインテリジェンス機関を改善しようとする取り組みについて、以下のように述べている。
「1939年、ルーズヴェルト大統領は、最高司令官として、陸海軍統合委員会のややとりとめのない審議を監督する職を引き継いだ。陸海軍統合委員会は、長年の間、国防に関し、陸軍および海軍の統合活動の協力および調整を行うために存在した。しかしながら、1941年当時、陸海軍統合委員会は、米国が持っていた唯一の最高司令部であり、審議の下支えとなるインテリジェンス機関を創設する決定をした。
すなわち、参謀総長ジョージ・マーシャル大将および海軍作戦部長ハロルド・スタークが、陸海軍統合委員会に情報を提供する中央インテリジェンス機関として、合同情報委員会の設立を命じたのである。この命令は、1941年10月1日に承認され、陸海軍合同情報委員会が設立された」。
【陸海軍合同情報委員会設立以前の米国のインテリジェンス活動】
陸海軍合同情報委員会設立は、米国に対する潜在的な国際的脅威を分析することを目的とし、戦略レヴェルのインテリジェンスの収集分析を担当するインテリジェンス機関を創設しようとする試みであった。陸海軍合同情報委員会設立以前、米国は陸軍情報部および海軍情報局という小規模のインテリジェンス機関しかもっていなかった。
陸軍情報部および海軍情報局は、軍事および米国領外の民間活動に関する必要なインテリジェンスを提供することになっていた。しかしながら、戦間期におけるほとんどの米国の軍事機関と同様に、陸軍情報部および海軍情報局は、要員も予算も不足していた。
政府の指導者に提供されるインテリジェンスの大部分は、17か所に派遣されていた海軍の駐在武官経由でもたらされていた。彼らは、9人が欧州に、8人が南米に派遣されていた。
陸軍情報部は約80人の要員で構成されていた。陸軍情報部の任務は管理業務が主たるものであった。すなわち、陸軍省に勤務する人々のロイヤリティー・チェックや、政府施設・橋梁・その他重要施設の保護などである。
インテリジェンス・コミュニティーを構成する機関として、その他に国務省や司法省内部のインテリジェンス担当セクションがあったが、陸軍情報部や海軍情報局と同様に、これらの機関の要員も不足していた。これらの機関が実施するインテリジェンス収集・分析業務も、それらの省が所管する業務や国外に関する包括的な報告を提供する程度であり、非常に限定されたものであった。
【ルーズヴェルトとドノヴァンによるインテリジェンス改革】
自身が前任者から受け継いだインテリジェンスの混乱に秩序をもたらすために、1939年6月26日、ルーズヴェルト大統領は、FBI、陸軍情報部および海軍情報局のトップに命じて、これらの組織の活動を調整させることとした。
ルーズヴェルト大統領は、この報われない困難な任務を国務次官補ジョージ・メッサースミスに任せた。メッサースミスは面白い経歴の持ち主で、デラウェア州の公立学校の教員をしていたが、1914年、31歳の時に教員を辞めて国務省に入省し、外交官に転じた。1937年に国務次官補になる前は、オーストリア公使を務めていた。
1939年6月の時点では、ルーズヴェルト大統領は、中央インテリジェンス機関を創設する考えは持っていなかった。ルーズヴェルト自身にはそのような準備もなかったし、米国という国家も同様に準備ができていなかった。しかしながら、それからわずか2年以内という短い時間で、ルーズヴェルト大統領は、平和な時代も常設される文民主導の中央インテリジェンス・システムという革命的イノヴェーションを受け入れる必要性を認識した。
ルーズヴェルト大統領は、1941年7月に情報調整局を創設し、続いて1942年6月には、情報調整局を強化して戦略情報局(OSS)を創設した。この経緯を詳しく書くと以下のようになる。
1941年7月、ルーズヴェルト大統領は、諜報活動が国務、陸軍、海軍省でそれぞれ別個に調整なく重複して行われていた現状を改革するために、情報調整官をホワイトハウスに設置し、民間人の弁護士ウィリアム・ドノヴァンをそのポストに任命した。情報調整局の職務は、安全保障にかかわるあらゆる情報を収集・分析し、大統領や大統領の指定する政府機関および職員に提供することであった。
ドノヴァンは、図書館や政府機関等にある公開資料を専門家が分析すれば、枢軸国の戦力や経済力といった諜報上、重要かつ価値の高い問題についても解答が得られるという発想から、研究分析部を設置した。
1942年6月13日に、対外情報局を除く、情報調整局の部局は戦略情報局(OSS)に改組され、研究分析部も戦略情報局の一部局となった。つまり、研究分析部は、オープン・ソース・インテリジェンス(オシント)を担当したわけである。オシントとは、新聞・雑誌・政府刊行物などといった公開情報からインフォメーションを収集・分析してインテリジェンスを獲得する情報収集手法のことだ。
(以下次号)
(長南政義)