海軍予備学生と学校制度―当時の常識は記録に残らない(5) (荒木肇)

2019年2月6日

はじめに
 先週は思わぬ忙しさで休載の運びとなりました。お詫びします。研究会の自分の提案文書や、陸自富士学校での講話の準備などなどが重なり、とうとう書ききれませんでした。
 また、選挙の結果もまずまず予想通りとなりました。これからのわが国は何処へ行こうとするのか、一庶民としても関心があります。
 この回で年内最後になりました。ご愛読、ご支援ありがとうございました。来年早々からは、いま使われている中学校歴史教科書を開いて、「昭和の教科書」との違いを見つけてみる、そんな特別企画を立てています。
 およそ一世代、30年あまりも経てば、学界の研究成果も上がり、教科書の記述にも変化が現れます。新しい事実が発見され、学会で多数に承認され、定説となって教科書に反映されるには30年くらいかかるそうです。そういう点では、現在の学界の動向や、判断とは「世間の歴史常識」とはずいぶん異なってきます。
 先日、ある週刊誌の告知板を見ていました。すると、ある大学の客員教授をされている方が、幕府初期の農民統制の厳しさを表している『慶安のお触れ書き』について解説され、『紬(つむぎ)』は庶民のレジスタンスだったと書かれていました。その方の学ばれた時代には、無批判に使われていた『お触れ書き』ですが、現在では歴史学界では、その存在は認めない傾向にあります。幕府の法令集にないのです。
 そんな話題を毎回、散りばめていこうかなと思っています。もちろん、陸軍に関わるものも載せていきますが。よろしくお願いいたします。
海軍予備学生の話
 前にも書きましたが、陸軍に比べると海軍はずいぶんと違った文化を持っていました。士官とは高等武官たる少尉以上のことをいい(将校相当官も含める)、中でも兵科士官だけを将校という。だから、「当直将校・副直将校」というのは兵科士官だけがつく業務でした。同じような服装をしていても、高等商船学校出身の予備士官の階級章や帽章には、正規士官の桜の代わりにコンパスがついていました。また、結び蛇の目といわれた袖章の線もまっすぐでした。どんなデザインかというと、このコンパス・マークは今も海上保安庁に引きつがれています。
 また、特務士官という制度もあり、准士官から進級した少尉から大尉には階級章の金筋の幅が半分で、見分けがつきました。袖には金色桜花のボタンがジャラジャラついていました。「学校出」ではない人をとことん区別したのが海軍でした。
 こういう点では、少尉は士官学校出であろうと幹部候補生出であろうと、少尉候補者(下士官のコース)出身だろうと、まったく指揮権や服装上の差別がなかった陸軍の方が、はるかにリベラルだったと思えます。
 海軍主計科士官、軍医科士官、技術科士官は将校相当官でした。ただし、主計科特務士官は将校相当官ではありません。官は高等官になり、人事が鎮守府から海軍省に移っていてもです。軍医はどうかというと将校相当官であり、特務士官の軍医はいません。看護兵曹から特務士官になった人は看護科特務士官です。
 特選といわれて年に数人の人が特務大尉から少佐になりました(昭和9年から)。とたんに士官になれましたが、これはとても珍しい人たちでした。海軍は優秀な准士官を兵学校に1年間入れて「特修学生」としましたが、この人たちも「尉官代用」。ふつうの尉官がつくポストについても、あくまでも特務士官です。
 予備士官とは高等商船学校の卒業生だけがなれる身分でした。高等商船学校(東京、神戸の2校とのちに清水高等商船)の航海科と機関科生徒は「海軍予備(同機関)生徒」の身分を与えられました。3年間の学校教育を受け、海軍砲術学校に6カ月入校し、航海実習を1年間行い、そして船での見習士官勤務1年を経て、航海士、機関士の免許を手にしてはじめて海軍予備少尉、海軍予備機関少尉の肩書きを与えられました。また、海軍予備下士官の任用もあり、これは甲種商船学校(中等学校)の卒業生から採ったのです。
 すぐに分かるのが「生徒」の名称です。これは中等学校の上位にある高等商船学校に学ぶ者は「学生」ではなく、「生徒」だったからでした。小学生は児童、中等学校、実業学校、実業専門学校、専門学校、高等学校では在学者を生徒と呼びました。大学生だけが学生だったのです(いまも変わりません)。近頃、テレビなどで高校生に何をしていますかと尋ねると、「学生です」などと答えますが、あれはいつの間にか、学校にいる生徒だから学生だという気持ちからきたのでしょうか。
「海軍予備学生」のお話
 さて、陸海軍ともに予備員をたくさん作ろうということから様々な制度を考えました。海軍は1938(昭和13)年から技術科の二年現役士官の制度を始めます(99名でした)。あわせて陸軍でも翌年から、短期現役技術部将校の制度を発足させました。この技術部候補生に採用されると、たちまち軍曹の階級を与えられ2カ月の教育を受け、曹長・見習士官を命じられ、入営4ヶ月後には、大学卒は技術中尉に、専門卒は同少尉になりました。2年間の現役勤務を終えると、現役を継続するか、予備役になるかを選べます。ただし、軍医と違う所がありました。学校教練の修了証明を持っていないと受験資格がなかったのです。
 陸軍で正式に技術部が置かれたのは1940(昭和15)年のことでした。それまでは、技術部将校という人たちはいません。では、どうしていたかというと、1920(大正9)年から、大学理工系学科、工業専門学校出身者を採用して現役将校にしていました。技術部の独立の前ですから、砲兵中尉や工兵少尉の階級で採用していたのです。彼らは航空本部や技術本部などの官衙や研究機関、兵器行政の実務、工廠などで働いていました。飛行場設営隊などの機械が多い部隊でも、特技を生かして活躍していたのです。
 海軍予備学生の前身は、1934(昭和9)年に始まった海軍航空予備学生でした。最初の採用数はわずか6名です。翌年は15名でした。これが1938(昭和13)年になると、整備予備学生制度が発足。この年は飛行科20名、整備科40名になりました。航空軍備を増やそうとしても、海軍兵学校の正規将校たちだけではとても足りない。この年の兵学校出身者で航空要員は60名でした。ついでに現役下士官養成コースの予科練習生は甲種、乙種を合わせて1200名あまりです。
 当時でもアメリカ陸海軍の航空部隊の操縦者の比率は、士官2対下士官1くらいでした。これに対してわが国ではとても士官の搭乗員が少ないのです(1割にも満たない)。その理由には、両国の教育程度の差がありました。アメリカはすでに高等教育を受けた若者が同世代で15%もいたのです。それに対してわが国では5%にもならない少なさでした。中等教育だけで終わった者が10%くらいでは、搭乗員の士官の割合を増やそうとしても難しい。陸軍が幹部候補生に中等学校の卒業者を採ったり、海軍が特務士官という制度を造ったりしたのもやむを得なかったといえましょう。
 1941(昭和16)年10月になると、一般兵科予備学生制度が設けられました。翌年の1月に入団した第1期兵科予備学生は407名、9月入団の第2期生は551名。17年中に採用された海軍予備学生は兵科が958名、飛行科239名、整備科256名で合計1453名にも上りました。志願倍率は約6倍、なかなかの人気でした。しかも、陸軍とは違って、「軍事教練の修了証」がなくても良かったのです。
 陸軍の甲種幹部候補生の採用数は約1万、徴兵検査の合格者のうち、高学歴者がおよそ3万人ほどでしたから、高等教育を受けた人が全員、将校や士官になったわけではありません。ほぼ半数の人は、甲種幹部候補生試験(予備将校要員)に落ちて乙種(予備下士官同)になったり、一般兵として服役したりしていたのが実態でした。
 1943(昭和18)年になると、採用数はさらに増えて、兵科8256名、飛行科8182名、整備科1469名、合計1万7907名といった膨大なものになりました。この中には「徴集猶予」による特権を奪われた「学徒出陣」の人たちがいます。学徒出陣組は徴兵された一般水兵としてジョンベラ(セーラー服)を1カ月間着せられてから、志望や適性によって「専修」別に分けられました。
 18年の後半になると、「飛行専修海軍予備学生」といった専修別の名前が使われるようになりました。前の飛行科は飛行専修と飛行要務専修に分けられたのです。飛行専修でも海軍らしく操縦と偵察になりました。飛行要務とは飛行機搭乗員ではないけれど、情報などを扱う士官です。整備も飛行機整備と兵器整備に分けられました。兵科も、陸戦、通信、航海などの職種別になりました。
海軍予備生徒の仕組み
 予備学生の他に、予備生徒がいた。これは海軍の制度史上でもたいへん珍しい。それは、幹部候補生制度をもたないで予備員補充をしてきた海軍の問題だったからです。海軍予備学生は専門学校、または大学を卒業した者から採用してきました。しかし、昭和18年末の学徒出陣組には満20歳の在学中の人も含まれていたのです。これまでの規則では、彼らを予備士官にはできません。
 陸軍では中等学校卒業者は幹部候補生を受験できます。昭和18年には、中学校はそれまでの5年制から4年制になっていたので、現役入学なら20歳で専門学校3年卒業生です。大学なら高等学校3年を経た人が多いので、大学生の2年目が徴兵検査の年になりました。陸軍は学徒出陣組を全員、幹部候補生に採用できる。対して海軍は、それができない。そこで、海軍は臨時処置として、大学1年修了者にも予備士官の受験資格を与えました。
 しかし、浪人はいつの時代にもいたわけです。うまく手を打たないと、浪人していたから専門学校に在学中、あるいは高等学校に在学中といった人たちがいました。そこで、考え付いたのが「予備生徒」でした。もともと、前に書いたように、予備生徒とは船乗りとしての専門教育を受けた、あるいは受けている高等商船学校の生徒に与えられる身分です。商船学校の生徒の身分のまま、砲術学校で6カ月の訓練を受けていた人たちです。戦時短縮でこれも4カ月にされていましたが、それと同じ教育をするとして、臨時に同じ名称を与えました。
 ただ、教育を終えて、すぐに少尉にすると、予備学生や商船学校生徒と比べてあまりに有利に過ぎるといったことから、任官時期を半年遅らせることにしました。その間は、海軍少尉候補生で服装は兵学校を出たての将校と同じで短いジャケットに、金筋1本という襟章を付けました。こうして、海軍は陸軍に幹部要員を根こそぎ採られないようにしました。18年度の予備生徒の採用数は3763名という多数にのぼり、少ない数とは言えないと思います。
 それでは、皆さん、よいお年をお迎えください。