陸上自衛隊第14旅団


第14旅団は、中部方面総監の隷下にあり、司令部を香川県善通寺市の善通寺駐屯地に置く。四国4県(香川、徳島、高知、愛媛)の防衛警備、災害派遣等を主たる任務としている。
編成
旅団は、中核となる旅団長と旅団司令部(善通寺)、司令部付隊(*1)(善通寺)および以下の部隊が、善通寺(香川県善通寺市)、松山(愛媛県松山市)、高知(高知県香南市)の4つの駐屯地、北徳島分屯地(徳島県松茂町)に展開している。
(*1)司令部の管理及び業務支援を任務とする旗本部隊。

第15即応機動連隊(善通寺 3個普通科(歩兵)中隊基幹)、第50普通科(歩兵)連隊(高知 3個普通科(歩兵)中隊基幹)、第14飛行隊(北徳島)、第14偵察隊(善通寺)、第14特科(砲兵)隊(松山)、高射特科(高射砲兵)第14大隊(松山)、第14施設(工兵)隊(徳島)、第14後方支援隊(善通寺)、第14通信中隊(善通寺)、第13音楽隊(善通寺)
特性
旧第2混成団。平成18年に旅団に改編された。「即応近代化旅団」と位置付けられている。戦車第14中隊は演習場の関係から旅団警備区外、第13旅団の警備区である岡山県の日本原駐屯地に駐屯している。
略歴
2006年(平成18年)3月 第2混成団から第14旅団に改編。普通科第50連隊新編。旅団の師団等標識は、第2混成団時代のものを踏襲。
2011年(平成23年)3月11日に起きた東日本大震災の被災地、石巻市東部と女川町に1,500人を派遣し救援活動を実施
2012年(平成24年)3月:高知駐屯地第2営舎地区を閉鎖し、徳島県阿南市に徳島駐屯地を開設。第14施設中隊及び第14通信中隊を第14通信隊、第14施設隊に改編。
2018年(平成30年) 3月27日:大規模改編が行われた。
・旅団司令部に火力調整部を新設(同時廃止の第14特科隊本部から改組)
・第15普通科連隊の即応機動連隊改編。
・第14戦車中隊を15即応機動連隊隷下の機動戦闘車隊として収容のうえ、日本原駐屯地から善通寺駐屯地へ移駐。
・第14特科隊を廃止(3個射撃中隊を中部方面特科隊に改編し、一部を隷下第15即応機動連隊の火力支援中隊及び第50普通科連隊の重迫撃砲中隊に改組。)
・第14高射特科中隊を第14高射特科隊に増強改編。
・中部方面特科隊が平時14旅団隷属
【参考】
現14旅団の担任地域は、帝国陸軍では善通寺11師団(管轄区域:四国四県に相当する地域 S15より55師団)が担任していた。
帝国陸軍第14師団は、日露戦争末期、師団総ての動員により本土駐留師団がなくなった事態を受け、明治38年(1905年)に創設された4個師団のひとつ。衛戍地(*)は宇都宮(栃木県)。
日露戦争では第3軍隷下で満洲遼東半島警備の任に就いた。大正8年(1919年)4月シベリア出兵に出動し、ニコラエフスクで守備任務に就く。翌大正9年(1920年)5月、隷下部隊の水戸歩兵第2連隊第3大隊と一般市民が過激派によって虐殺される事件、いわゆる「尼港事件」が発生。
昭和2年(1927年)4月 満洲の旅順に出征。昭和4年帰国。昭和7年(1932年)3月、第一次上海事変に関東軍隷下で参加。昭和7年(1932年)5月満州事変が勃発後は北満で転戦。水戸歩兵第2連隊第2大隊は熱河作戦に就く。昭和9年(1934年)帰国。
昭和12年(1937年)支那事変勃発後、華北戦線に投入。永定河渡河作戦に就く。その後、保定、山西、徐州と転戦。昭和14年(1939年)帰国後、満州への移駐が計画される。昭和15年(1940年)斉斉哈爾(チチハル)に移駐。
昭和15年(1940年)8月 師団の衛戍地が満州となり永久駐屯することになった。ただ、14師団の補充地は宇都宮のままだったので、除隊後に宇都宮に帰郷した兵達が、満州の食文化である焼餃子を地元に広めたといわれている。
大東亜戦争が始まると、師団は南方に転用(S18)された。主力をパラオ本島に、歩兵第2連隊(およびその配下に編入された歩兵第15連隊第3大隊)をペリリュー島に、歩兵第59連隊第1大隊をアンガウル島に配備した。
ペリリュー島・アンガウル島の部隊は、上陸したアメリカ軍と交戦して全滅。ペリリュー島への逆上陸を強行した歩兵第15連隊第2大隊も壊滅。パラオ本島に残る師団主力も、地上戦は無かったものの空襲と飢餓で多くの損害を出し終戦を迎えた。
昭和19年(1944年)9月、作戦協力を申し出るペリリュー島の原住民約200名を、わが部隊は米軍の強襲前に島外に退避させた。その過程の感動的な逸話は、日本武人の優しさを代表する話として大変有名である。現在もパラオは親日国で、国旗も日の丸を模して創られている。
(*)陸軍部隊が永久にひとつ地に配備駐屯することを意味し、その地を衛戍地と称した。英語では Garrisonに相当する。