短期現役と2年現役―当時の常識は記録に残らない(4) (荒木肇)

はじめに
 皆さん、ご教示、応援ありがとうございました。五反田猫様、予備役空軍大尉殿、情報提供ありがとうございました。東京法学院が中央大学の前身であること、よく分かりました。今後ともご愛読、ご指導重ねてお願い申し上げます。
 黒猫ファン様、いつもまことに貴重なお励ましの言葉、ありがとうございます。おっしゃる通り、明治維新以来の急激な西欧文化輸入政策、そのため、時代による違いがたいへん大きいのが陸海軍でした。それを無視して、あるいは一般には理解不能として、多くの方々が分かるように記述しない。そういったことが多いようです。あるいは、研究者の中にも、知らずにさらっと書いてしまうという傾向もありましょう。
 K様も、ご愛読ありがとうございます。力が湧いてきます。
 ところで、わが政府の官房長官の『早く撃ってくれればいい』はひどいですね。いかに自分のことしか考えていないか、防衛ということをよく知らないか、政権をになうとはどういうことか何も分かっていないことを露呈しただけですね。人生の成功者の一人として、多くの方々に影響も与えてこられたでしょう。同じ口で高尚な言葉も出されたことでしょう。しかも、批判されるととたんに舌足らずだった。むしろ、「いやあ、本音ですよ。我が党の支持者の方々もきっと同じでしょう。自分の上に降ってくるのはあり得ませんから」とでも言った方が痛快でしょう。
変わってしまった常識「タンゲン」-師範学校生の兵役
 お元気な中曽根康弘元総理は、元海軍主計少佐の肩書きを持たれています。私たちが若いころには、政財界には元総理だけでなく「海軍タンゲン出身士官」の著名人が多くおられました。自称、他称を含めて、みなさん「海軍短現」とおっしゃるので、当時の人も「2年現役」のことをそう言っていたのかなあと不思議でした。
 それというのも、元々、「短期現役兵」というのは、陸軍の服役制度のことであり、海軍の言葉ではありませんでした。師範学校出身者がなるものだったからです。
 1886(明治19)年には「師範学校令」が公布されました。そのとき、それまでの東京師範学校は、高等師範学校(中等教員養成)に改組され、初代校長に現役陸軍歩兵大佐山川浩(やまかわ・ひろし)が任じられました。山川浩といえば、戊辰戦争の会津藩の優れた野戦指揮官の一人でした。佐賀の乱で歩兵少佐に任用され、その有能さで「賊軍」出身でありながら累進し、西南戦争でも熊本城の打通(だつう)に成功。この年、明治19年には少将になりました(98年=明治31年に現役のまま死去・貴族院議員・男爵)。また、同郷の柴五郎陸軍大将(砲兵出身・北京籠城戦の名指揮官)の庇護者としても有名です。
 明治19年の「師範学校令」では、生徒には在学中の生徒の学資、食費や被服、日用品、寮費などは全部学校から支給とされました。全寮制でした。「兵式体操」も必修とされ、生徒への貸与品には、「銃1、背嚢1、胴乱負(どうらんおい・小銃弾薬盒)1、革剣差(かわけんざし)1、銃剣1、洗管(せんかん・銃身内の手入れ用具)1、十字鍬(じゅうじしゅう・小型のツルハシ)1・・・」などと明記されています。当時の尋常中学における兵式体操のカリキュラムよりいっそう高度で、生兵学(初年兵教育)、中隊学、行軍演習、兵学大意、測図などがあり、まさに陸軍下士養成のようでした。
 こうした生徒に対する兵役制度は特別なもので当然です。1889(明治22)年1月には、徴兵令が改正され、第11条にはおおよそ次のような内容があります。
『満17歳以上満26歳以下で、官立府県立師範学校の師範学校の出身者は、6カ月間現役服務をすることを志願できる。その間の費用は学校が負担する。現役を終えた者は7年間の予備役、3年間後備役に服する』
 ところが、これは同年11月には次のように改正されました。
『・・・卒業証書をもち(つまり、教員の資格があり)、官立公立小学校の教職にある者は「六週間現役」に服させる。その費用は官給とする。現役終了後はただちに国民兵役に編入する』。教育史では、これを「短期現役」の始まりとしています。
 このことは、国民教育を尊重し、兵役のために国民教育事務を停滞させないようにするものだったと解説されています。私の好きな映画の『二百三高地』には、ロシア文学が好きな小学校訓導(?)である、あおい輝彦さんが、『これでも予備少尉じゃぞ』と子供たちに語る場面がありますが、すると古賀少尉は師範学校卒ではなかったことになります。少尉は中等学校卒で1年志願兵になったのでしょうね。当時の訓導(小学校教員)の給与はやたら低く、よほど豊かな家の出身だったに違いありません。
 ついでに制度のこととして、教員免許状にもふれておきましょう。
(1) 小学校准教員免許状
(2) 同正教員免許状
(3) 同普通免許状
の3種類があります。現在も大学院修了者の専修、一般大卒の1種、その他の2種があるのと似ていますね。制度はあまり変えられないのです。明治の昔は、師範学校卒業生は認定で(1)を取得し、1年以上、公立小学校勤務の後に正教員の試験を受けました。一般の人は検定に受かれば准教員からスタートしました。正教員免許をもち、5年以上公立小学校の訓導の職にあり、優秀とされると文部大臣の検定を受けて普通免許状が交付されました。
 注意すべきは石川啄木のような中卒の「代用教員」でした。彼は正確には「訓導(教諭というのは中等学校教員)」ではありません。日露戦争直前頃は、厳しい区別があり、小学校長、訓導、准訓導はそれぞれ職階だけでなく身分も違いました。校長と正教員である訓導は判任文官の待遇を受け、准訓導は警察の巡査以下の待遇とされました。判任官というのは、官吏の身分の一つで、上から勅任官、親任官、奏任官が「高等官」とされ、判任官は長官による任命です。軍隊では、高等官とは士官をいい、准士官から3等下士(伍長級)までは判任官でした。国民兵役の下級幹部(歩兵伍長)だった正教員が判任官待遇は相応するわけです。
 代用教員は地方の町村長に任免権があり、身分も保証されない辛い立場でした。当時の資料から教員の身分上の割合を示すデータがあります。明治33(1900)年の数字ですが、正教員は55%、准教員が22%、無資格教員は23%になっています。このころの教員の最低給与額がありますが、男性の正教員で尋常小学校勤務、月8円。准教員は5円でした。高等小学校勤務でも男性10円、女性8円。同じころの陸軍軍曹が衣食住の給与以外に12円でしたから、教導団を出て任官(当時は判任官)すると、教員より待遇は良かったのです。
「臨時教育会議」から生まれた「タンゲン」
 教育史に詳しい方の他にはあまり知られていないだろうと思われる会議です。ときは大正6(1917)年9月20日、寺内内閣によって開催されたものでした。世界大戦後の教育改革に対応するための総理大臣の諮問機関です。ちょっと前には「臨時教育審議会(リンキョウシン)」という機関が中曽根内閣にあったことを覚えておられる方もおられるでしょう。国家が大きな節目にさしかかると、必ず、教育制度改革に関する議論が出てきます。
 会議は1919(大正8)年5月23日に廃止されましたが、小学校教育について3回、高等普通教育について2回、各1回ずつ大学、専門、師範、女子、実業、通俗の各教育、視学制度、学位制度の答申を行いました。また、「兵式体操の振興」と、国体明徴思想の高揚について要望する2つの建議もされたのです。
 現在にもつながるのは、「私立・公立の大学を官立大学と並んで認めること」です。それまで、歴史を誇る慶応義塾だろうと早稲田だろうと大学と称してはいいが、制度上は「専門学校」であったために、卒業生は学士号をもっていませんでした。現在もある多くの古い私立大学のほとんどは、この時から「ほんとうの大学」になりました。
 義務教育延長という方針も見送られたのも重要です。すでに尋常小学校は6年制(1907年=明治40年)になり、義務教育になっていましたが、これを延長しようというものでした。小学校にも高等科2年間が併設され、これを拡充発展させようという計画です。しかし、実現したのは1939(昭和14)年に「青年学校」が義務化されることによってでした。また、1941(昭和16)年には国民学校(小学校を改称)を8年制とすることが決定され、完成する19年度、20年度には、満6歳から20歳までの13年間の義務教育が実施されるはずでした。現在、高校への進学率が100%近くなっている状況をみると、この状態はすでに70年前には決まっていたことなのでしょう。
 さて、臨時教育会議で振興をいわれた「兵式体操」とは、中等学校以上で行われていた軍事教練や学科のことをいいます。これが大正末年の「陸軍現役将校学校配属制度」につながっていき、軍縮で行き場がなくなった将校達の救済策だったなどと悪意をこめた説明が多くされてきました。しかし、実は、当時の文部省が渋る陸軍省に積極的に働きかけてできた制度といえます。
 というのも、兵式体操は予備役・後備役の下士や、同じく将校が学校ごとに雇われて教員になっていたからです。そのため、生意気な中等学校の生徒の中には真面目に授業を受けないという風潮が蔓延していました。わざと逆らったり、教員を侮辱する言動をあえてしたりする。将来の兵役にもまるで利害関係がない、しかも時代は「友愛」、「進歩」、「改革」が流行語だった大正時代です。当時も今も、流行に敏感で、軽薄な若者が多かったことはすぐに分かります。
 小学校教育、兵式体操の振興、教員の資質向上をいわれたわけで、1918(大正7)年から、小学校教員の現役期間は1年になりました。どうせならということで、一年志願兵に志願することもできました。ただし、一般的には現役兵生活を終えてすぐに国民兵役の伍長になる制度は変わりませんでした。支那事変(1937年)以降の大動員で、召集されて出征した予備役少尉の中には、小学校の校長先生もいました。
 しかし、1927(昭和2)年の兵役法の施行により、またまた、5カ月に短縮になりました。これを「短期現役兵」と言ったのです。当時は、軍縮のこともあり、一般兵も入営前教育で優秀だった人は6カ月の短縮もされていました。全寮制で、厳しい訓練を受けてきた教員たちが、現役期間を減らされたのも当然といえましょう。そして、この年から海軍にも教員たちが入ることができるようになりました。もともと海国日本、海軍は義務教育の教員たちに門戸を開くことに熱心でした。ただし、5カ月が終われば国民兵役の3等兵曹(陸軍伍長と同じ)になりました。
海軍士官の「2年現役」
 今も「海軍タンゲン士官」などと書かれる本もあります。ご自身たちも、戦後、『我々短現は・・・』といわれたり、『海軍短期現役制度』などと書かれたりすることが多いようです。しかし、これは正確ではありません。海軍士官の場合は、正確には『2年現役』といわれました。
 この制度は、1925(大正14)年に軍医科士官を対象に設けられました。海軍には高等商船学校卒業者の予備士官(兵科・機関科)、もしくは現役を退いた予備役士官しか戦時の予備員制度はありませんでした。戦時には軍医の増員も必要であるということから、「二年現役」制度が始まりました。医科大学(官・公立単科大学)や帝国大学医学部の出身者は採用と同時に海軍軍医中尉に任ぜられ、横須賀にあった海軍砲術学校に入校しました。医学専門学校の出身者は海軍軍医少尉です。砲術学校で、海軍士官としての素養をつけ(6週間ほど)、ただちに病院などで勤務を始めました。規則上は薬剤官もありましたが、実際の採用はもう少し後になります。
「二年」としたのは陸軍の兵役との関係です。現役期間を満たすと、そのまま勤務するか(つまり現役軍医になるか)、民間へ帰るかを決めさせられました。民間に帰ることにすると、軍医中尉は予備役軍医大尉に、少尉は中尉に昇進し予備役になりました。
 この1925(大正14)年という年こそ、学校教練が陸軍現役士官によって指導され始めた年です。そして、翌々年の1927(昭和2)年は新しい『兵役法』が施行され、陸軍では幹部候補生制度が始まりました。陸軍の予備軍医は、この幹部候補生の中から採用していて、大卒も医専卒もいっしょに軍医少尉でした(ただし、大卒は10カ月、専門卒は12カ月)。しかも、入営の当初は一等卒だったので、海軍の『一躍(イチヤク)軍医中尉・少尉』と比べると、ずいぶん見劣りしたものです。
 この海軍2年現役制度は、1938(昭和13)年になると、主計科、技術系の科にも拡大され、1942(昭和17)年には、歯科、法務科にも拡大されました。中曽根氏をはじめ、戦後有名になった多くの海軍主計科士官は、この制度の適用者でした。
陸軍の短期現役軍医 
 陸軍はずいぶん軍医に冷たい。そんな印象がありますが、1933(昭和8)年になると、さらに医師たちにとっては海軍が魅力的なりました。というのは、陸軍はこの年、幹部候補生制度の手直しをし、全員が2等卒として入営することになったのです。この中から試験を受けて、予備軍医になるのでした。そこで、当局は工夫し、改正に合わせて「短期現役軍医」という制度も設けました。
 採用時から軍医候補生として、「2等看護長(軍曹に相当する)」にし、見習士官を経て、3カ月後に「3等軍医(少尉相当官)」にする。その後、1年間の現役勤務をさせ、入営から1年3カ月後、このまま現役を続けるか、予備軍医として民間に帰るか選ばせたのです。幹部候補生から予備軍医になる人(2年間の現役)とはここが違いました。これを「短期現役軍医」と言ったのです。
 この制度は1937(昭和12)年の日支事変が始まると、一般幹部候補生出身者と同じように現役が2年に延長されました。さらに「軍医予備員」制度も創設します。
 次回は、いよいよ「海軍予備学生」や、当時の学校制度などについてもお知らせしましょう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)