海軍と陸軍の制度比較―当時の常識は記録に残らない(3) (荒木肇)

2019年2月6日

はじめに
 いよいよ選挙も近づいてまいりました。自民党は「国防軍」への改称をいい、諸制度の見直しもされるつもりでしょう。これに対して、民主党は「自衛隊」でいいという。公明党も、「馴染んだものを・・・」という論調。興味深く注目しています。どれだけの国民が海外に出ていく自衛官、最前線に立つ国境警備の海上保安官などの皆さんのことを理解しているかの問題だとも思えます。
 軍隊の体裁を完全に整えるのには「軍法」の創設と、それに基づく軍法会議を置くことであり、階級呼称を変えることなどは防衛二法の改正と裁判所法の改正で済むことです。憲法を変える必要はありません。「交戦権の確保」も実際的な「交戦規定」を作れば、それで済むのでしょう。しかし、やはり、国軍として誇りがもて、さまざまな問題点をクリアするには憲法上の位置づけがとても大切だと思えます。
 わが日本は海国でした。建軍当初などは、「海陸軍」といわれたくらいで、海主陸従の考え方でした。それが当時の治安優先のため、「陸海軍」という言い方になりました。人の数も陸軍が圧倒的に多く、基本を一般徴兵においた陸軍と、志願兵制を中心にした海軍とはずいぶん文化が異なったものでした。
 英国海軍をモデルとした海軍、当初フランス式、ついでドイツ式の陸軍とは、制度の用語も運用の考え方もずいぶん違っていたようです。
 現役士官の養成でも、兵学校への入校と同時に「海軍生徒」の身分を与えた海軍。これは、下士官の上、准士官の下という立場です。だから、教員(下士官)が授業をする時にも、生徒に敬語表現を使わねばなりませんでした。当時としても中学校卒業したてのオニイチャンに対してはすごい優遇です。もっとも、地方では中学生はエリートであり、一年坊主が人力車に乗ったら車夫から「旦那(ダンナ)」と呼びかけられた。これは大正時代の話です。
 兵学校から遠洋航海に旅立って、この時は少尉候補生、身分は准士官の上になります。帰国して艦隊に配属され、ほぼ半年の候補生生活を送り任官。
 これに対して、兵卒の経験もさせなければならないとした陸軍。士官候補生という制度が出来た時から、中学校卒業者は指定された歩兵聯隊で1年間の生活を送りました。その後、中央幼年学校(後の予科士官学校の前身)へ行き、卒業とともにまた聯隊へ戻る。上等兵、伍長、軍曹の生活のあと、本科へ戻って再教育。ようやく見習士官(曹長)になって(ただし、身分上はまだ士官候補生)、その後、少尉任官。
 海軍士官はスマートで、陸軍士官は野暮ったい・・・というのも、そのあたりから来ているのかも知れません。現在も、陸自幹部と海自幹部にはずいぶん気質の違いもあるようです。同じ防大の釜の飯を食い、生活を同じくしながらでも違います。それぞれの幹部候補生学校の教育の仕方も異なりますが、陸海軍そのものを比べてもたいへん興味深い。
 そこで、今回はちょっと専門違いの海軍のことも、陸軍と比べる視点から書いてみましょう。詳しい方がおられましたらご指導をお願いします。
陸軍一年志願兵制度
「一年志願兵」とは、明治から大正時代(正確には1927年の兵役法改正まで)の予備役幹部の養成コースでした。ドイツの「壮兵」制度をモデルとして、わが国も中等教育の卒業者対象につくった制度です。その特徴は、各聯隊や大隊で教育すること。必要経費、食糧費や被服費、弾薬代、その他を負担させたことでした。ただし、ふつうは3年間の兵役が1年ですみました。悪くても上等兵になれ、優秀なら軍曹、ふつうは伍長になって予備役になる。さらに、翌年の勤務演習に出れば3カ月で少尉になれました。
 1893(明治26)年の『一年志願兵條例』によれば、『所属隊ヨリ、糧食、被服、装具、兵器、弾薬ノ現品ヲ給シ被服費装具費、弾薬費及兵器修理費トシテ金六拾貳圓糧食費トシテ金参拾八圓ヲ納メシム』とあり、これだけで合計100円となりました。また、騎兵科になると、馬糧費、装蹄費(馬の蹄鉄)、刷毛費、馬薬費として75圓を納めさせる。合わせて175圓ですね。さて、当時の主食であるコメ一石が17円(明治30年)くらいでした。およそ10石も買える金額です。1石といえば、成人男性が1年間に消費する量になりました。
 この頃の職工さんの日給が40銭あまりです。100円といえば、250日分。労働日数が月に25日として月収が10円という状態です。横山源之助といえば、『日本の下層社会』などの著作で有名ですが、1897(明治30)年の職工の家庭生活を描いています。36歳で妻もいて4人家族、日給は65銭、月収16円25銭でした。家賃が4円(3部屋)で、米代は7円60銭。肴1円60銭、蔬菜類1円50銭、味噌醤油50銭とあるので、食費は合計で11円20銭。これに酒1円、ランプの石油代19銭、髪結35銭、薪炭2円50銭、風呂代30銭などとあり、雑費も入れれば、毎月赤字の連続になっています。
 3年の兵役を1年ですませる志願兵になるには、『徴兵令第十三條』による指定された学校の卒業、もしくは見込み者でなければなりませんでした。
 帝国大学(当時は東京のみ)、高等師範学校(のちの東京教育大学・筑波大学)、高等商業学校(一橋大学)、東京工業学校(東京工業大学)、大坂工業大学(大阪工大)、高等学校(旧制)、東京美術学校(東京芸大)、高等師範附属音楽学校、札幌農学校(北大)、陸軍省の陸地測量部修技所(参謀本部所属の技師養成所)、逓信省管下の郵便電信学校、東京商船学校(のちの東京商船大学)、農商務省がもった水産講習所(東京水産大学)、尋常師範学校(府県立の小学校教員養成学校)、さらに尋常中学校(いわゆる普通科)です。
 これに文部大臣が中等学校と同等以上と認めた学校が加わりました。東京にあった(今もあります)独逸学協会学校(独協学園)、東京法学院(不明)、東京専門学校法律科(早稲田)、明治法律学校(明治)、専修学校(専修)、和仏法律学校(法政)、京都府医学校(京都府立医大)、大坂府立医学校(大阪府立医大)、愛知県立愛知医学校(県立医大)京都府立商業、宮城県立宮城農、兵庫県立神戸商業、大阪市立商業、大阪府立農、名古屋市立商業、長崎県私立猶興館、石川県立工業、長崎市立長崎商業などなど、府県市立、私立の学校がならんでいます(明治33年調べ)。
 1900(明治33)年の学校数でいえば、中学218校、実業(商業・工業・農業)143校、高等学校7校、専門学校48、大学2、師範学校52校でした。次に在学者数では、中学校7万8000、実業1万8000、高校5700、専門1万3000、大学3200、師範学校1万6000弱というところです。このときの小学生の在籍数が毎年、120万人前後ですから、男子の1学年数はほぼ60万人。中学校、実業学校へ進むのはおよそ、2万人前後。30人に1人の進学率でした。
 明治34(1901)年度の大阪府管内の壮丁調査でも、約1万3000名のうち、中学卒業、同等の者は240名とあります。次ぐ高等小学卒は739名で、それぞれ、1.8%、5.7%という比率でしかありません。
 こうした時代に、中学生になれた人、実業学校へ通えた人、ほんとうに恵まれた階層であったわけです。日露戦争で動員された将校のうち15%が戦死し、兵卒は7%でした。陸軍野戦軍全体の死傷率は約15%でしたが、負傷者は戦死者の約3倍ですから、将校の死傷率60%は大変な数字といえるでしょう。
 なお、日露戦争に参加した少尉、中尉といった下級将校のうち、約40%は一年志願兵出身者でした。兵科将校全体では1万8000という参戦数ですが、うち4000人は一年志願兵だったのです。
一年志願兵の教育
 明治の頃の話です。毎年12月1日に入営しました。ふつうの現役兵と変わりません。他の現役兵とは異なった教育を受けました。将来、将校になれそうだとされた人は入隊から4カ月後、1等卒を命じられ、2カ月後には上等兵とされます。下士勤務を行いつつ3カ月後には伍長の階級に進められます。終末試験は聯隊長によって行われ、合格者は軍曹に、不合格者は伍長に任じて予備役に編入されました。
 有名になった大西巨人氏が書かれた『神聖喜劇』の中に、多くの学歴が高い伍長がおります。すでに1942(昭和17)年のこと、彼らは一年志願兵の終末試験落第者か、もしくは兵役法時代の乙種幹部候補生でしょう。
 ところで、基本教育の4カ月の間に、「将校になれそうな見込みがない」と判定されると、コースが違ってきます。6カ月後に1等卒、さらに3カ月の後に上等兵とされ、下士教育を受けました。予備役編入においては、優秀者は「下士適任證(証)書」を受け、他の人は上等兵で除隊しました。
 獣医、軍医、薬剤官などの国家資格をもつ予備士官養成はこれとは違います。また、当時、軍吏(ぐんり)といわれた経理部士官も異なった養成でした。入営半年後には、獣医生、軍医生、薬剤生といわれた曹長同等官の階級に進められました。ただし、軍吏だけは予備2等書記(軍曹相当官)で予備役に編入されたのです。軍吏にはとくに資格がなかったからでしょう。演習召集を受けて3カ月の見習士官勤務を終えると、それぞれ予備3等獣医、予備3等軍医、予備3等薬剤官そして、予備3等軍吏になったのです。
 高名な細菌学者、野口英世博士が若いころ学んだ会津若松氏の「会陽医院」のドクトル・渡辺鼎(わたなべ・かなえ)も予備3等軍医として日清戦争に出征されました。この間のマネジメントを野口がたいへん上手にしたと言われています。あれれ、と思われた方もおられませんか。大学出は軍医中尉、専門学校出身は軍医少尉ではないかと。それはまた、のちの時代の制度でした。当時は予備役軍医も、こうした一年志願兵制度が適用されていたからです。
 1898(明治31)年の数字では、志願者総数1618名でした。うち採用されなかった人がおよそ3分の1、実際に入営したのは728名です。軍医138、軍吏139名でした。このころの尋常中学校や実業学校の卒業者数はおよそ2万人、とはいうものの志願をするのは身体的、学力的にも自信もある人のこと。この頃の徴兵検査の軍医の思い出話に『学歴所有者の4割くらいは近視眼だった』ともあります。そのまま徴兵検査に行けば、まず、甲種合格にはならないだろう。そう考えて、志願しなかった人もいたことでしょう。
 とはいえ、この頃の陸海軍の学校に進む生徒も700名近くはおりました。すると、2500名くらいは志願したのではありませんか。2万人のうち、2500名といえば、8人に1人、軍隊がけっこう身近だった時代でした。
コンパスマークの予備士官の登場
 戦時になると大きく膨れあがる陸軍と違って、海軍の増員はそう必要とはしませんでした。だから、予備員教育もずいぶん手軽な感じでした。もっとも、「船乗り」を養成するわけですから、簡単にはいかないのも道理でしょう。
 1884(明治17)年の規則改正で、商船士官養成学校だった高等商船学校。のちに神戸にも出来、海国日本のバックボーンとなった人たちの母校は、大東亜戦争後には、それぞれ国立東京商船大学、同神戸商船大学となりました。いまは、それらも同東京水産大学といっしょになって、同東京海洋大学となっています。卒業しても、外国航路の士官になろうとしても求人が少ないのだそうです。
 この高等商船学校の生徒には、志願によって海軍予備士官になることができました。のちの「海軍予備学生」にもつながる制度ですが、海軍士官たちの身分に注意。海軍将校とは、士官の一部ですが、原則として海軍兵学校を卒業した兵科士官だけをいいます。もちろん、のちに現役に役種が変わった人や、特選された人はきわめて少数ですがおりました。
 海軍と陸軍との違いが際立つのは、この人事システムでした。まず、海軍には陸軍の兵科と同じように、各科といわれた区別がありました。将校とは兵科(戦闘専門職)の士官(少尉以上)である高等武官でした。主計官は主計少尉や同中佐などといわれましたが、あくまでも「将校相当官」であり、艦艇や団隊の指揮権はもちません。同じように、技術科士官も相当官。軍医も相当官。
 では、機関科はどうかというと、機関将校(将校とは違う)でした。指揮継承順位では艦艇では先任将校(兵科士官)が全部いなくなって、初めて機関長である機関少佐が指揮をとることとなっていました(末期には変わります)。この他に、「特務士官」といわれる少尉以上の武官がいました。これはまたはっきりしていまして、各科准士官から特進した人たちです。陸軍でも1917(大正6)年には「准尉」制度が発足しました。特務曹長と呼ばれた准士官の優遇制度でした。これは少尉相当官で中尉には進めません。この後、「少尉候補者」制度が1920(大正9)年にできて、准尉の名称もなくなりました。特務曹長改め、准尉となったのは昭和12(1937)年のことでした。
 国家の軍隊ですから陸軍の改革は海軍と足並みを揃えます。1915(大正4)年のことです。海軍は大きな制度改革を行いました。
(1) 機関科将校を相当官から本官にする。
(2) 特務士官、准士官制度が始まる。
(3) 予備士官制度が海軍武官官等表にのる。
(4) 下士が下士官となり、1等から3等までになって、職種整理がされた。
(5) 海軍兵を「卒」から「兵」に改める。
 上級下士官に進級の道を開くために、准士官、特務士官の階級をつくります。予備員の制度化も行われ、予備士官、予備特務士官、予備下士官を設けて、予備員制度を整えます。また、機関科の士官の最高を機関中将としました。機関大監(きかん・だいかん)は機関大佐(きかん・だいさ)に、大機関士(だいきかんし)は機関大尉(きかん・だいい)になります。薬剤大監、水路大監(いずれも大佐相当官)も新設しました。また、技術系士官が造兵、造船だけだったものを造機官というポストを新設し、造機総監(中将相当官)から造機少技士(しょう・ぎし、少尉相当官)を階級名とします。
 興味深いのは、特務士官、准士官、下士官の序列が、兵科、機関科、軍楽科、船匠科、看護科、主計科の順になったことです。軍楽科が第3位なのは特別技術職とみなされたからでしょうか。
 予備員のことでした。予備中佐が最高で、機関科では予備機関少佐です。商船学校を出て、実務に就いているうちに昇進するのが海軍予備士官の特徴でした。戦時に召集され実務に就かないと進級しない陸軍予備役将校との違いがありました。
 1920(大正9)年、「海軍武官官階表」と「海軍兵職階表」が大改正されました。
(1) 海軍武官の佐官を上長官、尉官を士官としていたものを、将官、佐尉官を全部いっしょに「士官」としました。官階表に「将校」の文字を使わなくなります。
(2) 相当官だった軍医、薬剤、主計、造船、造機、造兵、水路の各科士官はみな、兵科士官と同じ呼称になった。少主計が主計少尉となりました。もっとも、士官仲間では、少ペイマスター(英国の言い方と同じ)だから、愛称は変わらず「ショッペイ」だったと体験者は書いています。
(3) 特務士官だった兵曹長(陸軍の准尉と同じ)を特務大尉、同中尉、同少尉として、上等兵曹の准士官を「兵曹長」とした。
(4) 軍楽科、船匠科、看護科の下士官をすべて1等から3等の兵曹という名称にし、「師」や「手」といった言葉を廃止した。軍楽師は軍楽兵曹長になり、2等看護手は2等看護兵曹になった。
(5) 主計科の「上等筆記」は主計兵曹長になり、筆記(書記・庶務系統)も厨宰(ちゅうさい・糧食系統)もみな主計兵曹となった。
(6) 予備員の機関科は予備機関中佐を新設し、兵科と同格になった。
 海軍兵の種別は、兵科、機関科、軍楽科、船匠科、看護科、主計科の6科となりました。
 ほぼ、紙数も尽きました。ご退屈な方もおられましょうが、軍制は面倒で無味乾燥に見えますが、世の中の変化をもっとも素直に映す鏡でもあります。次回も続けます。
(以下次号)
(あらき・はじめ)