帝国陸軍における野戦師団の編制

2019年2月6日

動員と復員
 常設師団1個が動員されると、野戦師団、野戦電信隊、兵站諸部隊の動員が同時に行われた。動員とは、軍隊が戦時体制に入り、戦時編制になることをいう。逆に、平和に移行して平時体制にもどることを復員といった。
 この他に野戦師団への補充を行う留守師団、それに後備部隊、臨時特設部隊、補助輸卒隊、国民兵隊などの編成も実行される。
在郷軍人の招集
 では、こうした動員がされたときの在郷軍人の召集はどうするか。『陸軍召集条例第15条』には次のように決められていた。
『充員召集トハ動員ニ方リ諸部団隊ノ要員ヲ充足スル為在郷軍人ヲ召集スルヲ謂フ』、そして第19条には『召集ハ動員令ニ依リ之ヲ実施ス』とある。戦時召集には、この充員召集と補充召集(充員召集をしても欠員が出たときに行う)、国民軍編成のための国民兵召集があった。
 在郷軍人とは、『休職停職予備後備役将校同相当官准士官、予備役後備役下士兵卒(雑卒職工ヲ含ム)及帰休兵並ニ補充兵ヲ云フ』という定義に尽きる。
 なお、当時の兵役は現役3年、予備役4年4カ月、後備役5年というしくみだった。補充兵は補充兵役に指定され、12年4カ月が服役期間だった。現役入営が決まれば12月(のちには1月)に指定された兵科部隊に入営する。そこで基礎訓練を受けて、1年後には後輩が入ってくる。補充兵は教育召集があるだけである。入営しても3カ月、これで既教育(ききょういく)となり、家に帰ることができた。
 日露戦争直前のころ、壮丁(徴兵検査を受ける者)はおよそ52万人、現役兵は5万4000人くらいだから、ざっと10人に1人が入営すると思っていい。甲種合格はだいたい上位の3人くらいだから、籤をひいて、残る2人は補充兵になった。これとは別に雑卒は乙種、丙種の人たちが指定を受けていた。
輸卒の制度は日清戦争にはなかった。民間から、あるいは現地で人夫を雇ったため、たいへん不都合だらけだった。そこで、軍人にしておこうとつくったシステムだから、戦争が始まるまで、誰もその悲惨さには気づかなかった。
平時編成から戦時編成へ
 歩兵聯隊の平時編制定員は1800名。これが動員されると戦時編制になる。各部や配属の輜重兵を除けば兵卒定員が2400名になる(3個大隊、すなわち12個中隊)。計算上、1200名の現役兵に加えて、1200名の予備役兵の召集が必要だった。さらに、実際には内地に残す補充大隊に新入隊兵・召集した補充兵の教育のため、現役兵を少しは残すことになる。
 野戦師団には支援部隊がふくまれる。工兵材料の運搬にあたる架橋縦列(がきょうじゅうれつ:架を「が」と読む)、それに輜重馬の管理をする馬廠(ばしょう)、衛生隊、野戦病院4個がそれらである。
 
架橋縦列は63名の工兵を主体として、輜重兵の輸卒237名をふくんだ人員合計344名の部隊。馬廠は兵科将校准士官、下士兵卒57名と輜重兵科50名(前同輸卒46名)と各部の人員を合わせた112名。衛生隊も兵科将兵376名と輜重兵48名(前同輸卒44名)、ほか各部の63名を加えた487名。そして野戦病院は兵科兵卒24名と輜重兵135(前同123名)と医官その他で247名、合計406名だった。
 こうしてみると、野戦師団の1万8689名のうち、砲兵輸卒758名、輜重輸卒は各隊配属もいれて2656名にもなる。
これは全体の中で18.3%をしめた。これに野戦電信隊、兵站諸部隊の輸卒503名をあわせると、砲兵輸卒835名、輜重輸卒3159名となった。2万106名のうち、砲兵輸卒は4.2%、輜重同は15.7%になった。
(荒木肇)