メールマガジン「軍事情報」のホームページ

創刊2000年10月のメールマガジン「軍事情報」です。

軍隊の階級 – 東日本大震災と自衛隊(7)

time 2012/03/28

はじめに
 並木書房のホームページに記載されていますように、拙著『東日本大震災と自衛隊自衛隊は、なぜ頑張れたか?』が、いよいよ来月に店頭に並ぶことになりました。いち早く、ホームページでは申し込みを受け付けておられるようです。私と親交のある方が注文第1号だったと知らせてくださいました。

 この特集の初めにも書きましたが、アンケートによる隊員さんの答えが約400人分、直に会って話を聞いた方々は、およそ100人。その内容をまとめたのが本書です。もともと、自衛隊がわが国のまごうことなき軍隊だと思っている私は、世間の大方の『災害派遣で頼れる組織』という見方には異論があります。あるOBの方は、私あてのメールで、『国民の意見調査で好印象が高くなった、それはよいことだ』という私の書き方には断然不同意とおっしゃいました。

 その通りです。誤解を元にした支持など、いかに当てにならないものか。学校の歴史教育の場面でも、私はいつも主張してきました。「感情的な戦争反対論者は、かんたんに感情的な戦争賛成論者になる」。歴史教育の目的は科学的な歴史観を養い、歴史事象への科学的なアプローチができる能力を育てることです。だから、目の前の自衛官たちの献身的な行動を目にして、「なんて素晴らしい」と感情的に褒められても困るのです。

 ただ、無関心であるよりはいい。よく言われるように、愛の反対は憎しみではありません。無関心です。いまも北の海で、西の空で、侵犯がないか目を凝らしている自衛隊がいます。いつ何が起こってもいいように、いつでも出動態勢をとっている隊員が全国にいます。せめて、好印象を持ったついでに彼ら彼女らの仕事の中身や、ふだんの生活を知ってほしいと思うのです。

軍隊の階級の分かりにくさ

 軍事将棋という遊びが、子供の頃にあった。将棋盤に駒が並べられる。その駒にはそれぞれ軍人の階級や兵器の名前などが書かれており、それぞれの機能があった。私たちはそこで将官、佐官、尉官とか、大・中・少といった等級、曹長とか軍曹とかの名称を知ったものだ。いつの間にか、それがなくなってしまった。

 自衛隊の幹部に聞いても、ちょっと前まで、『3佐というのは昔の陸軍では何にあたるのかね』などとお年寄りに聞かれたという。いまは、そういう質問もなくなって、『1佐と3佐では数字の数が多いから3佐が上だろう』などと誤解する人も増えたらしい。1等、2等、3等という考えが時代に合わないのかもしれない。JRの車輛にも2等車がなくなってグリーン車といわれるようになった。だから、そんな誤解も増えるのかもしれない。ちなみに、自衛隊の幹部の階級名は、上から1等、2等、3等の順になる。3佐というのは、3等陸・海・空佐のどれかの略称で、列国や昔の軍隊の少佐にあたる。

 さて、昔の軍隊といまの自衛隊。前回では軍隊という組織のあり方の話をしたが、今回は少しそれを進めてみよう。自衛隊が軍隊から引きついだ財産はずいぶんある。たとえば、将官、佐官、尉官という言葉。また、陸曹という階級名がある。昔の軍隊では軍曹という階級があった。自衛隊は軍隊ではないから「軍」曹は使えなかったという。昔の海軍では下士官を兵曹といって、上等、1等、2等に分けた。これも海上自衛隊では「兵」が使えない。

 陸軍は下士官には等級をつけず、曹長、軍曹、伍長という官名にした。現在では、陸・海・空にそれぞれ曹をつけて、1等、2等、3等に分けてある。1等空曹、2等海曹、3等陸曹などである。この曹を辞書でひくと、トモガラ、仲間、朋輩(ほうばい)とあり、役人、役所の意味があるという。つまり、古代官制では、地方の軍団の下級役人を曹とした。役所といっても大きなものではあるまい。貴族の、まだ独立していない部屋住みの子供を、「御曹子(おんぞうし)」などと呼ぶのもここからきているらしい。

階級名の起こりは西洋式兵制の採用から

 階級名の起こりだが、最初は、外国語からの輸入だった。幕府陸軍では、ロイテナンド・ゼネラールを陸軍奉行とした。ゼネラール・マヨールというのが歩兵奉行だった。コロネルを歩兵頭(ほへいがしら)として1個聯隊(レジマン)を指揮するものとした。次の階級はロイテナンド・コロネルである。これが大隊(バタイロン)長で頭並といわれた。マヨールがその次。大隊を指揮することもあり、幕僚にもなった。カピテインというのが中隊(カンパニー)を指揮して歩兵指図役頭取(とうどり)という。中隊を半分に分けた半隊を指揮するのが歩兵指図役、1等ロイテナンド。2等ロイテナンドもいて、これが指図役並とされた。

 もちろん、幕府陸軍には砲兵、騎兵もいた。麻布学園を創設した江原素六(えはら・そろく)は砲兵頭並まで昇進した。明治のジャーナリストになった成島柳北(なるしま・りゅうほく)は騎兵頭だった。歴史に名を残した人を他にも挙げよう。北越から東北まで洋式歩兵を引きつれて転戦し、函館で戦死した古屋佐久佐衛門(ふるや・さくざえもん)は歩兵頭並である。戦術は得意だったが実兵指揮はどうにも不評だった大鳥圭介(おおとり・けいすけ)は歩兵頭だった。

 明治になって、みごとに近代陸軍の制度を取り入れて、各自の役割による階級が採用される。フランス式を全面採用する前のことだが、階級名をどうするか議論になったらしい。士官は2つに分ける。これはどうも欧米はみなそうだと主張された。国王からの信任状を受ける者と受けない者。コミッションド・オフィサーを上等士官、ノン・コミッションド・オフィサー(NCO)を下等士官とした。これが下士官という言葉の起こりだそうだ。

 上等士官は士官とだけされて、3つの階層に分けることになった。欧米諸国、みなそうである。よすがになったのは古代から伝わる律令だった。武官の名称を探してみた。近衛府(こんえふ)には「かみ=長官・すけ=次官・じょう=判官・さかん=曹」の4つの官等があった(これを四等官といい、どこの役所も同じ)。近衛府の「かみ」は大・中・少将である。衛門府(えもんふ)には「かみ=督、すけ=佐、じょう=尉」があった。そこで、佐官、尉官という言葉が生まれた。大は「つかさどる」、少は「たすける」の意味である。中というのは、大納言、中納言というように、大・少の間にあるものだった。

 厄介だったのは下士官である。地方の軍団(実態は9世紀には消滅したらしい)には「さかん」として軍曹がいた。これを使おうということになった。最初は、尉官にあたる「じょう」も判任官にしようとしたらしい。「毅(き)」という官名が軍団にあり、これが下級指揮官だった。それで、大毅、中毅、少毅という名称も候補になったという。もし、この時、毅が採用されていたら、いまも1等陸毅、とか3等海毅になっていたかもしれない。

最初は良く分かっていなかった区別

 明治になってとりあえず、戊辰戦争の軍功や過去の履歴によって、上等士官や下等士官をつくった。最初は直轄軍としての「御親兵」からスタート。そこでは、大きな混乱があったらしい。元はといえば、主力になったのはみな武士である。武士の意識の面白さは、それぞれが主君をもち、忠誠の対象が異なることだ。彼らの感覚は、時代劇やよくできた歴史小説やドラマでも描ききれないと思う。

 たとえば、家老と馬廻り(うままわり)といわれる武士がいた。現在でいえば、会社の重役と平社員である。今なら、重役から家においでなどと言われたら、ひどく喜び、いそいそと出かけるというところだろう。しかし、武士同士ならそうはいかない。階層の違いはあっても、重役も平士も殿様との距離で比べれば同じである。武士が公務で私邸に呼びつけるわけがないから私用で招くしかない。そうであるなら、平士はお客である。ドラマでよく見るように、自分は奥の間に袴もはかず座っているなどしなかっただろう。対等な身分であるサムライには、自ら礼を尽くして玄関まで迎えにいくのが常識だった。

 そんな社会に、西欧式の階級社会を持ちこんだらどうなるか。昨日まで対等な気分だった者が、軍功を尺度にされ上下に分けられる。やってきた中隊長は、別の藩では足軽身分だったなどと聞いたら、さあ、大変だった。西南戦争を調べる必要があって、記録を見たら、当時の薩摩出身者が多かった近衛兵などはひどかったらしい。下士、士官の区別などほとんどない。酒を飲めば杯盤狼籍、暴れまわる。軍曹が大尉の頭を殴り、中尉は少佐に噛みつく。秩序などあったものではない。

 下士官を養成する教導団ができた。同時に士官学校もあった。どちらも集まった生徒の資質には、そんなに差がなかった。後の時代になってから、○○大将は下士官出身だとか、教導団上がりだとか宣伝されたが、彼らはコースの一つとして教導団から軍人生活を始めたに過ぎない。昭和の満洲事変のおかげで首相を退いた田中義一(たなか・ぎいち)大将も、教導団から士官学校へ進んだ一人である。

貧乏士族が教導団へ

 明治の初めに豊かな士族などほとんどいなかった。何とか官界に行きたくても、そこは藩閥政治の時代でもあり、「朝敵」とされた旧藩の人たちには厳しかった。その点、能力主義は昔も今も軍隊の特質である。士官学校や教導団は広く世間に開かれていた。『坂の上の雲』で有名な秋山好古大将が伊予松山藩の出身。司馬遼太郎が意図的に隠したことがある。司馬さんの筆によれば、松山藩は佐幕だったから莫大な賠償金を上納されたとある。

 あれは、松山藩兵が長州戦争で不法行為を犯したから、それへの制裁だったのだろう。松山藩兵は幕府歩兵隊といっしょに周防大島に上陸し、「戦闘間ノ行為デノ非行」をたくさん犯したのだった。「戦闘行為」なら不法性はない。問題になったのは占領した後で、物資をむやみに徴発し、民間人を虐待したことである。藩主自らが後に謝罪書を書いた。秋山の家族がそれに参加したことはなかったようだが、松山藩と聞けば心中穏やかにはいられない長州出身者もいただろう。それでも秋山は陸士に入校を許されている。

 どころか、あれほどの栄達である。会津出身者も例外ではない。北京の籠城戦で有名な柴五郎も大将になった。最後まで抗戦した榎本武揚(えのもと・たけあき)ですら海軍中将であり、戊辰戦争で官軍を苦しめた桑名藩士も大将になる。幕府医官だった松本良順も軍医総監に任命される。

 長州藩の陸尺(ろくしゃく=藩主の駕籠かき)の息子、田中義一だって教導団から軍人生活をスタートした。最初の頃の教導団への志願者は多くが士族だった。これが変化してくるのが、1880年代の初期である。ちょうど、上等兵の定数が多くなる頃である。その背景には、現役軍人の定数削減があり、予算の縮小があった。下級下士は上等兵で代用させる。のちの「伍長勤務上等兵」という考え方である。上等兵は服役を延長して現役下士にはならない。

下士の不人気

 1884(明治17)年には教導団生徒採用規則が変わった。採用試験の問題は、「読書、作文、算学」とされる。算数は「整数、分数、比例」であり、これがなかなか難しかったらしい。というのは、当時の小学校は4年制であり、それもすべて終える人が少なかったからである。で、それができるような人は、わざわざ下級官吏である下士に志願したか。ときは、西南戦争から10年近くもたち、世間に経済主義が浸透してきた頃でもあった。下士には高等小学を出た人くらいが欲しいといっても、そういう人は少なかったし、停年が40歳では第2の人生に不安を感じてしまったことだろう。

 さらに、下士の不人気に拍車をかけたのが、1880年代末の士官候補生制度の発足であり、下士から士官に進むコースがほぼ閉ざされたことである。近代学校制度が整備されるのは、1889(明治22)年からだが、士官候補生になるには中等学校教育を受けていなければ圧倒的に不利になった。試験科目が独学や、従来の漢学塾では対応できなくなった。新しい時代にふさわしい、欧米風の基礎教育を受けた若者を士官にしようとし始めることになる。

 八甲田山の雪中行軍の成功者だった福島泰三歩兵大尉も制度の変わる寸前に士官学校へ入校できた。福島は没落した河川海運の問屋の生まれ。苦学して師範学校を出て、陸士へ入校した。彼が受験したのは漢文と作文である。その翌年から陸士の入試科目は、数学、物理、化学、英語、国語、歴史・地理というように、近代化がされた。

 下士の志願者は減る一方だった。社会的に冷遇され、給与も決して十分とはいえない。わが国で、軍人が豊かな給料を貰っていたことはまずなかった。戦時利得者は世間の想像とはまったく逆で、少なくとも軍事ではない。現役軍人は戦地手当てや、戦時手当てで給与は増えても、戦争とはインフレをもたらすものである。その上、軍人にはいつ戦死、戦傷を受けるかという危険がつきまとう。

下士の優遇を叫び続けた陸軍首脳

 下士官室が別にある。兵隊が食器をささげもって行く。という景色は、日露戦争後のことである。日露戦争はむしろ、国民に軍隊嫌いをもたらしたと思う。表向きの軍隊への感謝と、迷惑をかけられたという本音は別である。社会的地位が低くなり、経済的な優遇とは縁がない軍人自体に人気がない。そんなころに士官ならともかく、ちょっと気はしの利く人間が下士になどなろうというはずもなかった。

 陸軍はなんとか下士を優遇して志願者を増やそうとした。プロペラひげで有名、わが陸軍にスキーを導入したことでも有名な長岡外史という中将がいた。秋山好古とは陸大で同期、日露戦争時には参謀本部次長を務めている。この人も下士制度の改良に熱心だった人で、『将校は下士の身分を愛護せよ』という演説をよく行っていた。将校は隊務の間には下士を教育せよ、兵卒の前で下士を叱るななどと細かい注意も与えている。

 徴兵制度の中にあって、兵卒はあらゆる階層からやってくることになった。『中には三井、三菱の子弟もやってまいります』というのが、当時の長岡中将の講演記録にある。そうした中で、下士を志願するのは、決して一流の人物ではないという。むしろ、3年間の兵役の中で上等兵に早く選抜される人の方が有能だ。そうした人は現役志願をして下士に残るようなことはしない。一般世間で十分にメシが食えるのだ・・・だから、統率、服務上の指導などでも、下士はなかなか兵に優越できない。そこで、将校は下士を大切にしろというのである。

 それでも、下士の志願者は減る一方だった。良くなるのは、世間が不況になって農山漁村に帰っても食えないという時代だけである。世間の経済が活況の時には、軍人になどなろうとしないのがわが国の人であることは、昔も今も変わらない。1990年代のバブル経済のころ、自衛隊も隊員獲得に血道をあげていた。いま、世間が不景気になり、自衛官の志願者はやや増えているのか。それでも、少子化という後門のトラがいる。

自衛隊の曹になるのはたいへんである

 聞くところによると、またまた定員が減らされるそうだ。緊縮財政だというが、大震災であれほど活躍し、しかし同時に「頭数」が足りないことがはっきりしたはずなのに、政府の考えていることは奇妙である。

 いま、陸自を例にとると、一般入隊した自衛官候補生の他に、曹候補士という制度がある。一般採用は、一部を除き2年間の任期制隊員。ふつう2任期、4年間で除隊する。もちろんその間に陸曹候補生になるというように身分を変えることもできる。ところがこれが激戦である。部隊によっては、7人に1人、いや十数人に1人という割合でしか合格しない。なんといっても定員が少なくなるからポストがない。志願して残りたくても残れない。

 曹候補士は受験段階から激戦である。受験者の中には大卒も珍しくない。一番早ければ、2年9カ月で陸曹という永年勤務の下士官になれる。下士官になって4年すれば、部内幹部候補生にもなれるから、8年目くらいには3尉(少尉)かもしれない。そういう魅力があるからかもしれないが、これが人気である。ただし、最短で…というところがミソになっており、実際その通りにはなかなか行かないことだろう。

 次回は自衛隊を支える陸曹たちの話を書こう。

(つづく)

(あらき・はじめ)

「荒木さんの書く本だから信用できます」(自衛官)
東日本大震災と自衛隊

このエントリーをはてなブックマークに追加
[`yahoo` not found]
[`yahoo_users` not found]
このエントリーを Google ブックマーク に追加
[`newsing` not found]
[`google_buzz` not found]
GREE にシェア
email this


【日本最大級】楽天トラベル


軍事情報へのお問い合わせはこちらまで


メルマガ「軍事情報」 登録(無料)はこちら↓でどうぞ

メルマガ購読・解除
 


米国軍隊、警察、特殊部隊、米国政府機関で正式に採用されている科学的護身術~コンバット・ファイティング


sponsored link

down

コメントする




CAPTCHA


その他

英霊来世

メルマガ購読・解除

 



「日の丸父さん」(1~12話)

▼机上論ではない、安保政策の理想的な教科書▼

▼精緻な銃器豆知識▼

▼最高の孫子解説書▼

▼三十六計で読み解くシナの戦略▼

▼自衛隊によるオリンピック支援の実際

▼水面下の戦争に勝つ▼

▼キーワードは「換骨奪胎」と「地政学教本」

▼インテリジェンスの教科書

▼明治以降の通説を覆した日露戦争陸戦史▼

▼再終末期の帝国陸軍の苦悩がわかる名著▼

▼防衛産業のすべてがわかる傑作▼

▼近現代日本の軍事史がつかめる貴重な一冊▼

▼国史の新常識▼

▼大楠公のエキスを吸収できる本▼

メルマガ登録

アーカイブ

あわせて読みたい

あわせて読みたい

人気の検索キーワード

最近検索されたキーワード

sponsored link

メルマガ購読・解除
軍事情報
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ


「日の丸父さん」(1~12話)
高速バスの予約 icon
■黒の経典SCS■歴史上の支配者が使っている女をものにする卑劣な方法とは?・・