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何をもって戦うか?–東日本大震災と自衛隊(2) (荒木肇)

time 2012/02/22

はじめに

 戦争体験があり、戦場体験がある。戦争体験とは戦時中に生きていたことがある人のことをいう。記憶がはっきりしている世代は、いまも多くいる語り部である。空襲を受けた、食糧事情が悪かった、自由がなかった、知り合いが、あるいは親族が戦死した、負傷した、それぞれが貴重な体験である。語る人の多くは「戦争は悲惨だ」という傾向がある。

 戦場体験とは、戦闘があった前後にその場所にいたということになる。ただし、軍務に服していたか、あるいは民間人としてその地にいたかを区別すべきだろう。満洲などでソ連軍に、あるいは武装した地元民に襲われたなどということも広義の戦場体験にあたる。

 では、実戦体験とは何をいうか? 戦場と認定される地で軍務に服していて、命令系統にしたがって行動した人を指すと私は定義している。もちろん、武官や兵としてだけでなく、軍属の人々もこれにあたるとする。

 こうしてみると、私たちの周囲には、この定義にあてはまる人がきわめて少ないことがわかる。外地から引き揚げてきた人もいた。内地でも空襲や艦砲射撃を受けた人もいた。しかし、戦争の日々から70年近くが経った。戦争体験者も減ってきた。戦死された方々は語ることはないし、戦場体験も語れる人が少なくなった。実戦体験者にいたっては、もうほとんど会うことは難しい。

 そして、実戦体験者がたいへん少ないのは当たり前といえる。それは軍人や軍属の多くの仕事は後方支援勤務であり、敵の姿をほとんど見ることがないというのが戦争のほんとうの姿だからだ。だから、戦地に行ったことがある人でも、最前線の勤務者でないかぎり、敵を見て撃ち合った人などめったにいない。近代戦では敵は見えないのがふつうなのだ。

「自衛隊は実戦体験がないからだめだ」などということを語る人は多い。もっとひどい人になると、「戦時になったら逃げるヤツが多いだろう」などともいう。何を根拠にしてそう語るのかは分からないが、訳知り顔の自信は実態を知ってからなのか。いや、おそらく、何も知らずに自衛官のことを知ることもなく、勝手な妄想にふけっているだけだろう。

後ろ姿を部下に見せよ

「これは映画や歴史の教科書で見た戦場ですね」と若い陸士はつぶやいた。
 それほどに津波が襲ったあとの街は瓦礫と、さまざまな物の残骸にあふれている。道は跡かたもなく消えていた。何から手を着けたらいいのか。ほんとうに先行きが見えない不安と、自然の猛威、人間の無力さについて考えこまされたという。

 S2尉は防大を出て4年目の幹部である。中部地方の師団高射特科大隊で、いつもは短(たん)SAMと呼ばれる地対空ミサイルの射撃小隊長をつとめている。師団固有の防空部隊で、敵の航空機やヘリの攻撃から味方部隊を守る仕事である。レーダーや電源車、射撃指揮装置、発射機などを指揮している。

 今回の発災では、いちはやく出動。若い部下も連れて宮城県山元町に入った。
「活動初日はほんとうに緊張しましたが、それ以上に自分が小隊長であり、部下を指揮しなければならないという思いにかられていました」
 将校、指揮官としての責任感である。悩むより、まず活動しなければという思いが先に立った。
「災害派遣が初めてであり、身近な人の死にも直面したことがない若い部下がたくさんいました。彼らは活動初日から2,3日間は引きつったような表情を浮かべていました」

 自分もまた、家族も友人も健在で、身近に死というものを感じたことが少なかった。
「しかし、彼らもまた先輩たちの行動を見ながら、徐々に成長していった姿が印象的でした」
 ご遺体を発見したらどうすればいいのか。S2尉には防大時代の授業の記憶があった。教官は語った。最初の遺体は、小隊員の誰よりも早く自分で抱きかかえる。尊厳の念をもって丁寧に収容した。その後ろ姿を部下に見せるのだ。自身が災害派遣で遺体収容をしたことがあるという体験談だった。
「私もまた、小隊長として最初のご遺体を自分で確認し、収容をし、隊員を指揮することができました」

俺達しかいないじゃないか

 ある普通科(歩兵)連隊でいつもは偵察班長、情報幹部をつとめているK2尉は入隊から10年あまりが経っている。陸曹から部内幹部候補生として任官した。宮城県南部に行き、給水支援、防疫活動、そして被災者の遺骸の洗浄などを行った。
「派遣される前の使命感は非常に高かったのです。とにかく被災地の復興のためには何でもするという思いでした」
 ところが、現地の惨状は想像をこえていた。絶望感を覚えたことをはっきり思い出せる。

「しかし、入隊以来、私は災害派遣などの実践的な仕事をしたことがありませんでした。でも、何事に取りくむときにも、いつか起きるであろう最悪の場面を考えてもいました。そして、そのようなときに実力を発揮する。そうでなければ、われわれの存在意義はないという思いもあったのです」
 そうしたK2尉にとって、訓練とは、自らの存在意義を確かめるためのものだった。
 ほんとうに最悪の事態だっただろう。だが、与えられた仕事をこなすというような生き方とは無縁だったK2尉にとって、目的意識をもった行動をとる、それがいつも通りの当たり前でもあった。

 ある警察署でのできごとである。遺体を洗浄する支援を行った。すでに遺体は変色して無残な様子を見せていた。さすがに隊員の中には、すぐに手を出すことにためらう者もいた。その時である。
「一人の隊員が言いました。亡くなられた方々を少しでも綺麗にしてご家族の元にお帰しできるのは、今は俺達しかいないじゃないか」
 その言葉の力は大きかった。誰もが、気を取りなおして辛い作業に立ち向かった。

自衛隊が必要とされるときは国家、国民が不幸な時である

 自分たちしかいない。自分たちの存在意義とは、国難という事態で、あらゆる困難を克服し、国民のために働くことだという隊員は多い。国、国民のために自己と自分の家族を犠牲にして任務に赴くことが自分たちの「つとめ」なのだという。

 東北方面隊の輸送部隊で小隊長をつとめるN3尉は避難民輸送にあたった。小隊長として12両のトラックをもっていた。
「あらゆる混乱の中で、実施することがたとえば2時間前に決まる。そんな流動的で、先が見えない状況の中です」
 部下には「俺についてこい」と意気揚々、元気いっぱいという態度でいたが、一人になると不安ばかりが心の中によぎったという。これでいいのか、大丈夫かと自問自答をくり返していた。
「忘れられないのは、現地でソーラーパネルを輸送した隊員が、そこにいた子供さんをおぶって相手をした時、その子がとても喜んでいました。その写真を見せられ、報告を受けました。この写真は忘れられません」

 ある師団の飛行隊に所属するT陸士長は無線通信手である。師団の通信訓練が終わり、駐屯地に帰ろうとしていたとき地震を感じた。そのまま岩手県に向かった。
「車内のラジオからは自分の想像をこえる被害があることが分かりました。たいへん辛い気持ちと、自分たちがやらなければという思いでいっぱいでした」
 家には妊娠中の妻や、まだ幼い子供がいる。心配していた。しかし、上司の言葉があった。自分も家族のことが心配だが、今は被災した人のために全力を尽くそう。そういわれて、自分の「つとめ」とは何か、それをまたしっかり心に刻んだ。

 T士長は活動のさ中に多くの被災者から感謝の言葉をもらった。「自分の方がたくさんの元気をもらいました。今回の任務を完遂できたのも、たくさんの人の支えのおかげです。これからも自衛隊に残り、有事には少しでも自分の力を国民のために役立てたいと、さらに強く思いました」

同じ人間ですし

 大船渡市に前進した施設科(工兵)部隊の中にA3尉はいた。17年前の阪神淡路大震災のときには小学2年生だった。記憶には、何も分からず、ただ親の後ろについて必死に逃げたことだけがうっすらと残っている。そのとき、初めてOD色(オリーブドラブ、自衛隊車輌や戦車の塗装色)のトラックの荷台に乗ってやってきた自衛官を見た。本当にすごいなあと思ったことは、鮮明に記憶に残った。

「被災者のために、一日も早い復興をという気持ちでした。可能な限り、一日でも早く活動を終えて、住民の生活を元通りにすること。このことをいつも部下に訴え続けました」
 瓦礫の山を整理する時には、時間が許すかぎり、きれいに細かい紙までも拾わせた。そんな時のことだった。住宅街で、80歳くらいのおばあさんが毎日現場にやってきて、家族の写真をずっと探し続けていた。瓦礫の山をひたすら探し続けるおばあさんの姿。
「自分の無力さを感じていました。ある日、偶然に写真が出てきました。わたして差し上げると、涙を流して喜んでくださいました」

 次々に行方不明者を発見できた地域があった。若い隊員はだいじょうぶだろうか。遺体を見て力を失わないか。それが心配で、重機の警戒についていた隊員にたずねた。
「同じ人間ですし、それに何よりこのために自衛隊に入ったので大丈夫です」
 自信たっぷりの力強い言葉だった。それを聞いて、とても頼もしく、自分も勇気づけられた。このような強い隊員を見習って、自分も小隊長らしくしなければとあらためて決意した。

「私たちの職業は、利益をあげるわけでもなく、市民のために何でもできるという組織ではありません。でも、こうした災害の時には、誰よりも早く、そしてすべてを犠牲にしても任務を完遂しなければならない仕事です」
 A3尉はこれからも、この経験を大切に、日々の訓練に励んでいきたいと思っている。

「疲れましたね」なんて言うな

 原子力発電所の近くで働いていた。除染車のドライバーだったM士長は、眼に見えない敵と毎日戦いつづけた。
「自分の地元である福島が、地震・津波ばかりか原発事故によって混乱しました。苦しみ、逃げ惑う人たちを見て、本当に悲しく思いました」
 しかし、自衛官として、自分たちにしかできない任務についている。そのことに誇りとやりがいを感じ、同時に、ふるさと福島のためだという強い気持ちによって任務を続けられたと語る。

 ひと段落ついた時だった。班長に「疲れましたね」と声をかけた。班長は以前、岩手・宮城内陸地震で災害派遣を経験していた。
「当時、おれの地元、栗原はたいへんな被害を受けた。だが、地元のことを思えば疲れなんて感じなかった。お前も福島のことを思うなら、疲れたなんて決して言うなといわれたことが心に残っています」

 除染をする時には、思い通りに行かなかったこともあった。苦労した。でも、これまでに受けてきた教育や、日ごろの訓練の成果が発揮できたことでこなすことができた。活動中に多くの人たちから感謝や励ましの言葉をもらった。あらためて自衛官になってよかったと思っている。
「より多くの知識や技能を体得していって、国民の期待に応えられる自衛官になれるよう成長していかねばならないと思っています」

自衛隊員は遠慮しすぎるという被災者の言

 E1尉は特科(砲兵)連隊の中隊長である。ふだんは4門の榴弾砲を指揮している。福島県内、原発20キロ圏内で捜索活動を行った。
「放射能に対する不安があったにもかかわらず、中隊の部下全員が行方不明者の捜索に参加させて下さいと申し出てくれました」
 中隊長として、誠に頼もしいかぎりだったとふり返る。

 流されてきた車がじゃまになって家に戻れない。そのご家族の要請で車を人力で動かした。そのとき、お礼の気持ちだといって飲み物を差しだされた。
「そのあと、お礼を言わなければと挨拶に出向きました。その時のことでした。ご主人から、自衛隊員は遠慮しすぎる。もっと我々の気持ちもくんでくれといわれました」
 こうまで我々のことを思ってくれていたのかと、思わず目頭が熱くなったという。「我々自衛官が表舞台に出なくてよい、国民の皆さまが平和に暮らすことができる日が一日も早く来ることを祈っています」

 次回は「気持ちを大切にする自衛官」をご紹介しよう。

(つづく)

(あらき・はじめ)

「荒木さんの書く本だから信用できます」(自衛官)
東日本大震災と自衛隊

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