徴集と徴兵―当時の常識は記録に残らない(1) (荒木肇)

2019年2月6日

時代の常識
 ある時代(直線で区切られるようなものではありませんが)の常識、当たり前はなかなか記録に残りません。むしろ、今も読みつがれたり、映像が残っていたりするようなもの・ことは、その時代でも記録に価するような、珍しかったり、驚かれたりする種類のことが多いようです。たとえば、少し前の流行だった「ガングロ」の少女たちのことが、100年先には「20世紀の末頃の女性風俗」と教科書には載るかもしれません。
 だから、大正時代や昭和の戦前期に銀座通りを洋装の「モガ」が歩いていました。それが写真になっていて教科書にもしっかり載っている。であると、当時の若い女性のほとんどが洋服を着ていたと思っては大変な失敗になります。実際に街角で調べた学者の報告によると、いわゆる「モガ」の発見率は、女性の中の3%くらいでしかありません。
 もう一つの興味深い調査があります。歴史教育問題、教科書論争が激しくなされたのは10年ほども前になりましょうか。それは、人の歴史像の作られ方というか、歴史についての知識は何によって形成されるかというアンケート結果です。ある市の教育委員会が行ったものですが、たいへん興味深い結果になりました。あの左がかった学校の歴史授業や、先生による教育だと答えた方は全体(1万人くらいを対象にしました)の僅か4%にしか過ぎませんでした。
 では、一番は何か。NHK、民放などの歴史ドラマが半数近く、次いで司馬遼太郎氏をはじめとする高名な作家の歴史小説が多く、映画や小説がそれに次ぐというわけでした。すると、いわゆる「自虐史観」の大元のような学校の偏った授業で歴史を理解している人は、実はひどく少ないということです。まあ、案外、世間は健全なものだなと思った反面、ドラマや小説の責任はとても大きいと考えました。
 また、同時に、テレビの製作者や、小説の書き手はよほど心してかからないといけないと思いました。そして、受け手の側も、不備があった場合のことを考えながら映像を見、小説を読まなくてはなりません。
 私はいろいろなところで、昭和戦前史や大正時代の軍隊制度を語ることが多く、ご質問も受けます。その皆さんのおたずねの代表的なもののいくつかをご紹介します。
徴集と徴兵検査
『昭和○○年、私は徴集され入営した』という記述をよく見ます。同時に『私に召集令状がやってきまして・・・、ええ、現役兵として入隊しました』という言葉がテレビでも使われていました。ドラマの登場人物のセリフですが、おそらく確実な知識がない脚本家が書き飛ばしたものでしょう。
「徴集(ちょうしゅう)」という言葉は軍事行政用語です。正確には、「その壮丁の役種(えきしゅ)を決定する処分」のことになります。役種というのは、現役、補充兵役、国民兵役などの種別をいいました。なお、予備役というのは、いったんは現役に編入された人が編入されるので、まっさらな青年がいきなり「予備役兵」にはなりません。
 形式からいえば、満17歳から編入されていた国民兵役という処分が、現役、もしくは補充兵役に繰り上がる処分でした。なお、補充兵役というのは、これもあまり戦記や小説にも出てきませんが、現役に適する検査結果の人でも、定員余剰のためにすぐに入営しなくて済みました。戦時の補充にするために指定されていた役種です。何事にも差を付けたがるのがこの社会で、「補充兵のくせに」とか、何かと下に見られたようです。
 五味川純平氏の有名な小説、『人間の条件』でも主人公が、「補充兵のくせに上等兵になった」と嫌味を言われます。上等兵というのは現役兵がなるもので、同じ時代に辛苦を共にした予備役や後備役(のちに予備役に吸収されました)の人がなるならいざ知らず、一格低いと思われていたようです。
 徴集とは検査を受けた結果、その人の役種が決定したことを言います。だから、すぐに入営になったり、予備役を対象にした召集令状を受けたりすることはなかったのです。ただし、「補充兵役」になった人が「教育召集」を受けることはあり得ます。だから、徴集、すなわち入営というわけにはいかなかったのが史実です。
 なお、ついでに海軍の場合、「入団(にゅうだん)」という言葉が使われます。兵員が最初に教育を受ける場所が鎮守府ごとにあった「海兵団」だったことから、入団という言葉が使われていたことからでしょう。ただし、正確にはこれも法律上は「入営」です。
 さて、徴兵の仕組みですが、小説でもテレビ、映画のドラマでもめったに描かれないのがこれです。ある小説の中で、『兵隊は1銭5厘のハガキでいくらでも集められるんだ』とあり、召集令状は市販のハガキ、もしくは現在の私製ハガキのようなもので来ると、誤解されるなと心配になりました。これは俗説で、実際には、市区町村役場の兵事掛(へいじがかり)が歩いて届けに来ました。
 この役場の役割と、陸軍の聯隊区司令部というものが、しばしば当時の常識になっていて、ほとんど記録に残っていません。
徴兵適齢届と兵籍編入届
 役場には兵事掛というポストがありました。実直で、公平な人物が選ばれたといいます。
 1927(昭和2)年に長い間なじまれた「徴兵令」が「兵役法」になりました。その第24条に、
(1) 戸主は家族の中から、毎年12月1日から31日までの間に、年齢が満20歳になる者がいたときは、その年の11月中に、
(2) 1月1日から11月30日までに、年齢が満20歳になる者がいたとき、その前年の11月中に、
(3) 本籍の市町村長に届け出ること。
とあります。これを「徴兵適齢届」といいました。市町村長に届けるということは、兵事掛の管掌になります。
 分かりにくい表現になっていますが、兵役期間の起算日が12月1日になっていることから起きているのです。だから、ある小説を読んでいたら、『本籍のある地域の部隊に入営したら、周りはみんな小学校の同級生ばかりで・・・』とありました。これは間違いです。学齢は4月2日から4月1日まででした。だから、今でも小学校に身体の小さな子が入ってきます。4月1日生まれは、2日以降の子供たちと一緒にされます。
 正確な表現をすれば、12月生まれの人と、翌年1、2、3月の早生まれの人は、同級生の多数と分かれて、翌年に1年下級生だった人といっしょに検査を受けました。ついでに、現役将校の養成課程だった士官学校や、少年兵の課程、あるいは満17歳以上で受け入れられた志願兵だった人たちはどうだったかを書いておきます。
「兵役法施行令第5条」によれば、戸主は『兵籍編入届』を出すことになっています。もうすでに兵役に服していますよという届けです。ある学者の論文の中に、『士官学校へ入った者は兵役に服さなくてもよいという特権があった』と書かれていました。つまり、安い給料で2年間国家に奉仕させられるといったふうに、兵役をマイナスにとった主張の一部です。
 これは明らかな間違いです。第84条に現役編入、補充兵役編入、徴集免除及兵役免除の処分はこれを『徴兵終結処分』とするという文言があります。第5条の第2項には、武官または武官の候補者で、徴兵検査を受ける前から志願して兵籍にある者は、その兵籍にある間、徴兵検査は行わない。そして、現役に服した期間、隊附の期間、練習のために海軍の艦船に乗り組んだ期間・・・通算して2年以上の者は、その期間が2年を満たす日をもって徴兵終結処分を経た者とするという規定があります。
 だから、現役将校は隊附士官候補生(時代によって差があるが6カ月)と見習士官(同前3カ月)の期間を含めて、実役2年になる日で徴兵検査とは縁が無くなるわけです。したがって、士官学校を退校したり、志願兵であることを途中で辞めたりした人は、徴兵検査がしっかりありました(第66条に規定があります)。士官学校の予科、本科はこれに算定されないことに注意します。陸海軍生徒は「准軍人」であって、兵役を果たしていることにならないからです。
陸軍特別幹部候補生
「ああトッカンの武者震い」でしたか、有名な歌がありました。大東亜戦中に創設された陸軍「特別幹部候補生」制度について、よく質問が出ます。経験者も関係者も、「幹部候補生」という字面(じづら)から、「現役将校になれる制度」と言うことが多いようです。これは間違いです。「幹部」という言葉は予備役になることが前提になっています。中等学校卒業以上の学歴があった人には幹部候補生志願の機会がありました。
 現在の自衛隊では警察予備隊以来の慣習から、士官・将校を幹部といいますが、昔は下士官以上を幹部といいました。だから、今でも「彼はわが社の幹部候補生だ」などといって、エリートの語感をこめて使いますが、陸軍ではそういうニュアンスはありませんでした。現役将校は士官候補生という名前で区別しました。「シコウとカンコウ」といえば、将校の出身を表す言葉で、前者は現役、後者は予備役です。
 幹部候補生というのは、その教育期間中は現役でも、それが修了して所定の階級が付与されると、そのまま予備役に編入された人たちです。ではなぜ、特幹には特別がついたか。それは、現役下士官の補充「臨時特例」だったからでした。
 特幹は現役下士官養成のための陸軍生徒、海軍予科練習生とはまったく違った制度です。中学の3年生、もしくは4年生の中途で採用されました。『年齢15歳以上20歳未満で、航空、船舶、通信もしくは・・・兵科または技術部の下士官を志望する者』と1943(昭和18)年勅令922号に明記してあります。教育期間はおよそ1年と6カ月。下士官になった者の服役は採用された月の1日から起算して2年になる日までは「現役」、その後予備役へ。ただし、現役を継続したいと希望した者は審査のうえ許可する。
 法文上は飛行兵、船舶兵、通信兵、兵技兵、航技兵とありますが、実際は船舶兵だけが実現したと思われます。そして、何よりの違いは一般幹部候補生のように「生徒」として兵籍に編入されるのではなく、「現役兵」になることです。その証拠は、階級の進め方でした。このあたりもドラマや小説ではいい加減になっていますが、「階級を与えられる(一般幹部候補生)」と「階級を命じる(特幹)」の違いがあります。
 そして、1年6カ月を3等分して、6カ月ごとに一等兵、上等兵、兵長と「進級」します。一般幹候のように「階級を進める」わけではありません。また、学歴による区別がありました。ふつうの特幹は伍長に、中学卒業者以上は軍曹に任じられました。
 まとめてみると、違いがよく分かります。
(1) 特幹は兵として兵籍に編入され、兵役義務の実務に服している。
(2) 乙種幹部候補生は、生徒として兵籍に入る。
(3) 特幹はたとえば上等兵を命じられるが、
(4) 乙幹はたとえば上等兵の階級を与えられる。
(5) 特幹は現役下士官の補充臨時特例
(6) 乙幹は予備役下士官補充の永久規定。
 ですから、ある小説の『うちの親父は特幹から現役将校になりました』というのは、ちょっと無理がある設定です。あり得たのは、18年の制度当初から入隊し、19年の秋に(中学校以上の卒業者だったゆえに)軍曹になれ、その後、士官学校の受験資格を・・・ということで考えてみてください。時間がありません。この著者はおそらく、『父は特別甲種幹部候補生から少尉になり、現役転官を願って試験に受かり・・・』ということを言いたかったのでしょうが、これも無理があります。役種の変更は大変なことでした。
将校の軍装品
 やはり、よく聞かれる「日本陸軍時代遅れ論」の話から。将校が軍刀を手放せなかった理由の一つとして、馬の軍隊だったからという理由もあげられるでしょう。
 すでに第1次大戦(当時は単に世界大戦)の後には、日本陸軍でも将校の指揮刀廃止の声があがっていました。壮絶な塹壕戦、はたまた砲撃の応酬から考えれば、軍刀をふるっての白兵戦など、まず起こり得ない。起きたって、もう手投げ弾と迫撃砲、機関銃で対応できる。
 じっさい、渡邊錠太郎という陸大校長は大正末のことだが、これからの歩兵隊が装備すべきものとして機関短銃(サブ・マシンガン)、性能を向上させた通信機材、歩兵用の擲弾筒、堅牢な自動拳銃などを挙げています。ところが、問題は砲兵隊や輜重隊などの部隊でした。騎兵のような乗馬部隊も同じです。戦場や演習地での騒音、とりわけ砲兵隊や輜重隊の砲車や輜重車の出す轟音、砂塵、塵挨の中で声が通ったか。
 一個中隊4門の場合でも、各砲に6頭の馬が付きました。それに観測車や部品車などなど。総勢で40頭あまりの挽馬と駄馬、乗馬が巻き起こす騒音はどれほどか。そうした時に戦車も自動車隊も手旗で信号したほどです。ピカピカ光る指揮刀の動きで馭兵も、操縱兵もみんな行動したのでした。
 昭和時代の将校の服制改正は1934(昭和9)年の軍刀のサーベルから陣太刀式への変更。1938(昭和13)年の軍服の立襟式から折襟式への改正でした。それと同時に階級章は肩章から、小さな襟章に変わりました。デザインは陸軍服制(昭和13年勅令第392号)で、着方(着装法)などは陸軍服装令(昭和13年軍令陸8号)で決まっていました。
 将校や准士官は、初めてその階級に任じられた時、軍装手当が支給されました。時代によって、あるいは士官候補生(陸士卒)、または幹部候補生、また現役下士官からといった出身別について金額はいろいろ変わります。それは、拳銃や軍刀・指揮刀といった装備品もすべて私物だったからです。貧乏少尉にやりくり中尉、やっとこ大尉という有名な言われ方も、実は毎月、ローンの返済があったからだという説もあるくらいでした。
 次回も、こうした話題を続けます。