救援隊が到着、そして後日談―主計大尉N氏の記録(3) (荒木肇)

2019年2月6日

支那事変でも使われた三八式重機関銃はじめに
 日米両軍の協力で離島奪回作戦の演習が中止になりました。報道によると、防衛省の政務三役の方々のご意向だとのこと。政治主導ですね(笑)。でも、うがった報道では、『中国を刺激してはいけない』という岡田ナニガシという政権与党の大物の判断だといいます。
 呆れかえった人物たちです。よほど中国がお好きか、あるいは中国に媚びたい方々の代弁者なのでしょう。現場の自衛官たちもアメリカ軍の担当者も、茫然としたに違いありません。アメリカ筋からはそうとうな抗議があったことでしょうが、中国からはお褒めの言葉でもいただいたか、野田首相はじめシレッとしておられる。
 いざとなったら、「中道路線」を主張する民主党のことです。尖閣諸島を共同管理しよう・・・などと言いかねません。それもこれも、あんな連中に政権を渡し、「一回やらせてみよう」と仰っていた方々のおかげです。投票した人、お先棒をかついだ方々からは反省の弁があまり聞こえませんね。政権交代の風潮をあおった新聞・テレビの人たちの猛省をうながします。
 昨日は明治節でしたが、好天に恵まれ、目黒の陸上自衛隊幹部学校の創立記念日に行って参りました。目黒駐屯地といいますが最寄の駅はJRの恵比寿です。陸海空の幹部学校と統合幕僚学校、防衛研究所、技術研究本部の一部などもあり、なかなか広大な敷地の中に建物群があります。その3階で開かれた祝賀会食は気持ちのいい会でした。政治家の先生方がおられない。まさに制服組の本音だけの会なのです。
 記念講演をされた曽野綾子先生への謝辞がありました。自衛隊は国民の最後の砦、その中でも幹部学校で学ぶ学生は中核たれ、という祝辞。アメリカ、インド、韓国、タイなどの留学生もいます。学生の皆さんは、自分たちが大切にされているという実感を持たれたことでしょう。
『戦争は人間的な営みである』石川明人氏著のご紹介
「戦争」と「平和」についての明快な解説書です。当たり前のことながら誰もが自分で封印をして語ってこなかった、考えてもこなかったことを率直に述べられた筆者の感覚・能力に感服。
 こうした若い世代の大学人がやっと出てきてくれたかという思いがします。中味はきわめて健全、としか言いようがありません。哲学者はすごいなと改めて脱帽です。
 なかでも「憲法九条も戦争文化の一部である」では、戦争反対論者について、「戦争のイメージがどうか」を再検討せよ、「第二次大戦型の戦争は二度と起こらない」という指摘はすばらしかったです。
右後方に敵影
 チラッ、チラッとこちらに向かっている敵兵が見えるようになってきた。こちらも激しく撃つが、状況は変わらない。およそ200メートルあまりに近づいている。そのとき、一人の兵が、『右後方に敵影!』と声をあげた。ふり返って見ると、後方の稜線、およそ300メートルあまり後方から黒い影が、こちらの斜面に駈け下ってくる。
 これでは、右翼が危ない。戦線を建て直そうとN主計少尉が腰を浮かした時、黒い影の中にカーキ色がまじっているのが見えた。望遠鏡でよく確認すると日本兵である。さては、黒い影は救援に来た県警察隊らしい。カーキ色はわが軍の指導員と看てとれた。この一団が戦線に加わるころから、八路軍の射撃も激しさを増した。
 飛んできたのは銃弾ばかりではなかった。土饅頭の蔭から、手榴弾を投げてくる。クルクル回って飛んでくる木製柄つきのタイプだった。円筒形の爆裂部分の下には木でつくった柄が付いている。それから紐と丸い指かけリングがのびていて、それに指をひっかけて投げると発火する。ドイツ軍が使った遠くに投げられる大型のものだ。それが、けっこう不発が多く、ときどきドッカーンと大きな音を立てる。
 こちらも投げ返す。わが手榴弾はほとんど不発もなく、「ドカーン」と大きい音がひびく。効果のほどは分からない。そのうち、遠くの方から「ダッダッダ」という大きく重い音が聞こえてきた。間違いない、味方の92式重機関銃の発射音だった。八路兵はいっせいに例の手榴弾を投げつけてくると後退を始めた。救援隊の主力が駆けつけてくれたのだ。わが右翼に散開して射撃を始める。
『攻撃ぜんしーん!目標、前方の独立家屋の線、躍進距離30!』と号令したところ、軍曹が動かない。近くの兵があわてて駈け寄った。なんと頭部貫通銃創で名誉の戦死をとげていた。救援の討伐隊の銃声が道路沿いにこちらに近づいてきた。92式重機の曳光弾がスルスルと伸びてゆく。部下を掌握して、討伐隊の方へ近づくことにする。道路上に一人の兵が倒れていた。みると、行方不明だった伍長である。
 敵の射撃をおかして強行突破した。そのとき、敵弾を受けてトラックの荷台上から転落していたのである。敵のいた所に近づいていくと、本道から50メートルくらい離れて旧道があった。1メートルくらい低くなっていて、そこにはたくさんの空薬莢が散らばっていた。ここに八路兵が隠れていたのだった。隠密行動に成功して、部落民もこれを知らなかった。歩いていて、我々と一緒に撃たれて倒れた老婆の死体も転がっていた。
 こうして死者は3人も出た。それこそ無辜の住民の犠牲もあった。2人の下士官の遺骸を収容し、老婆の家族には悔みの言葉といくばくかの見舞いの品をわたした。
死んだという誤報
 朝になると、ものすごい霧が出て、車の進行速度はひどく遅くなった。それまでも夜間は無灯火で走ったので時間がかかっている。運転台の両側のステップに1人ずつ兵を乗せて誘導させた。それでもどうにもならず、先を歩かせて行くことにした。街の入り口に近づくとようやく視界も開けて、スピードを出すことが出来た。
 聯隊本部に着いてさっそく副官の所に報告に行った。ノックをして声をかけると、上着のボタンをかけながらO副官が出てきた。薄明かりの中で、N主計少尉をびっくりした顔で見ている。視線が頭、顔、胸と下がっていって、足元を見つめていた。
「N主計、無事だったか。そうか、そうか、よかった、よかった」との第一声である。
 鉄廠鎮の部隊からの連絡で、『N主計の乗った車が襲われ、戦死者が出た』という報告が、いつの間にか『N主計の乗った車が襲撃され、N主計が戦死した』と変わっていたのだった。O副官は、立っているN主計少尉を見て、幽霊が出たかと驚いたらしい。
 英霊の安置、状況報告書の作成、後始末をして夜行列車で天津に向かった。
 師団経理官会議があるからである。
師団経理官会議とお供え
 年2回くらい師団の経理部将校が全員で集まる会議があった。会場は師団経理部である。各部隊の現況報告と経理部長からの指示、その実施要領等が2日間にわたって開催される。この年の始まりは、1月4日から5日にかけての2日間だった。
 初日の会議の席上、「支駐歩1のN主計が糧秣輸送の途次に襲撃され戦死した」という話が報告された。会場中、粛然とした空気が流れ、みなで黙祷したらしい。
 夜の懇親会でも、その話が披露され、天津会館(兵站宿舎)のホステスたちもそれを聞いていた。集まった将校達がみなN少尉の冥福を祈って「献杯」をしたからである。それが4日の夜の話。
 5日の夕方に師団経理部に到着報告をしにいくと、経理部の将校、下士官たちがいっせいに立ち上がってN主計少尉を見つめた。やおら、経理部長が、「N少尉は無事だったのか。よかった。よかった。それで戦闘の状況はどうだったのか」と訊ねてくれた。みな落ち着いて、席に座ったところで報告をし、「ご心配をおかけしました」と礼を述べておいた。
 同期のK主計少尉が、ちょっと・・・と袖を引っ張った。何事かと聞いてみると、「実は貴公の戦死という話を聞いて、天津会館のお姐さん達がお香典とお供えの栗饅頭をたくさん届けてくれたという。どうする?と聞いてくる。本人が生きているから香典はもらえない。お供えの饅頭はもったいないから、「生き仏」様が召しあがろうということになった。香典はその夜のうちに返しにいった。
 この誤報には、まだ後日談がある。同期のK主計少尉は前夜に戦死情報を聞いて、あいつならさぞかし奮戦しただろうと考えた。さっそく、ちょっとフィクションを入れて、『N主計少尉は糧秣輸送の途次に敵からの伏撃に遭い、軍刀を振りかざして敵中に斬りこみ、勇戦奮闘中敵弾を受け、戦死した模様』と知らせを書いた。それを教え子にあたる満洲国新京にあった経理部予備士官候補生隊の候補生に送ったから、数日して『教官、N主計少尉の死を悼む』といった弔電がたくさん届いてしまった。
敗戦と中国軍との対峙
 N大尉は敗戦を株州(チューチョー)で迎えた。第○○○師団、独立歩兵第○○○大隊の高級主計だった。中国では敵軍を追い回し、蹴散らしているのに何が敗戦かと信じられない思いだった。涙ながらの大隊長の『承詔必謹』ということで、誰もが釈然とはしないものの、とにかく連合軍に負けたらしいということは理解した。
「こんな場所でまごまごしていると、どうなるか分からない。師団をあげて漢口まで北上する。中国軍から攻撃を受けた場合は、当然、これに応戦する。ただし、師団長からは無用な戦闘をするなというお達しがあった」
 と、大隊長はいう。
 野戦倉庫に行くと後輩の主計中尉がいた。N氏は8月20日付で大尉に進級していた。加給品や食料品の他に、貴重品だった編上靴も数十足、物々交換用の布地などもたくさん渡してくれた。蚊に悩まされた話をすると、じゃあ、持っておいでなさいと蚊帳も5張りくれた。
 ここで軍からトラック5両の配属を受けた。本隊より先行して、行く先々で物資を買い上げ、集積して後から来る部隊のための環境整備をする。洞庭湖畔の岳州(ユエチュウ)に着いた。そこを出て、咸寧(シュンニン)へ向かって幌馬車隊は行く、いや実際は物資を満載したトラックだ。急いでいたら、先頭車のエンジンがオーバーヒート、修理工具で直しにかかる。そのとき、前方の小山の蔭から中国兵が小銃を小脇に抱えて3人やってくる。
 小休止していた2個分隊の護衛兵も急いで銃を構えた。中国兵は近くまで来て、何やらわめいているが意味が分からない。しかし、日本兵が武装していることに気おされているらしい。「中国軍が発行した通行証を持っているぞ」とブロークンの中国語で言うと、訳が分かったのか、分からないのか。引き返していく。
 トラックの修理はまだ終わらない。整備兵を急がせる。兵隊を散開させた。こんなところで死傷者でも出したら申し訳ないし、物資を持っていかれたら大変である。だが、降りかかる火の粉は払わねばならないと覚悟した。
 しばらくすると、今度は十数名の中国兵が、横に散開してやってきた。それぞれが小銃をこちらに擬している。20メートルほど離れて停まると、指揮官らしい男が何か喚きだした。何を言っているのか訳が分からない。通行証を見せて、自分たちはシュンニンまで行くのだと答えたが通じないらしい。勝手に車の幌を開けようとするから止めろと怒鳴っても聞かない。
 そこで、機関銃手に「弾丸込め(タマコメ)!」と号令した。ガチャ、ガチャと大きな装填音が響き、中国兵は動きを止めると、後ずさりしながら帰って行った。自分たちの方が少数なので危ないと考えたのだろう。トラックの修理も完了した。およそ30分も走ると、ちょっとした兵力で警備している野戦倉庫がある。そこで事情を話すと、「そうでしたか、昨日もあそこでトラブルがあって、中尉の人が戦死されました」という話だった。
 多くの苦労を経て、N主計大尉は帰国された。戦後は会社に復帰され、今度は経済戦士として活躍された。まだまだ、貴重な話は多くうけたまわっている。
(以下次号)
(あらき・はじめ)