短期連載:戦争は人間的な営みである【最終回】 愛と希望が、戦争を支えている (石川明人)

2019年2月6日

Photo by lednichenkoolga.こんにちは。
石川明人(北海道大学助教)です。
【戦争は人間的な営みである】の第7回(最終回)をお送りいたします。
今回のテーマは、「愛と希望が、戦争を支えている」です。
しばしば「戦争は悪だ」と言われます。しかし私は、むしろ戦争ほど未来への明るい希望によって支えられている営みはないと考えております。そうした戦争の皮肉と逆説を見つめることが、「平和」について考える際にも重要なのではないかと思っております。
忌憚のないご意見、ご感想をいただければ幸甚に存じます。
(参考動画:石川明人「戦争は人間的な営みである」約15分)
http://www.youtube.com/watch?v=gL_de198QsE

戦争を支えているのは「愛」と「希望」
人間による営みのなかで、「戦争」ほど未来への明るい希望によって支えられているものはない。
人は、何らかの大きな悪を封じ込めようとするがために、戦争を小さな悪として正当化する。やむをえず悪を決断することによって、将来的には大きな善がもたらされるだろうと期待し、予測するわけである。
したがって、戦争をするには、未来への前向きな希望が不可欠である。少なくとも、絶望は人を戦争に導かない。
戦いを前にして、人や社会は、勝つべきだ、勝たねばならぬ、と考えることができる。あるいは、勝てると思い込むことができる。だからこそ戦ってしまうのである。負けるとわかっていても戦うことがあるが、それは戦いそのものに、何らかの積極的な意義を感じ、戦うことの価値を信頼することができているからである。
戦争における希望と楽観は、愛情や正義感などとも連続している。その愛情や正義感は浅薄なものであるかもしれない。あるいは自分勝手なものであるかもしれない。しかしとにかく、何かに対する愛や理想、広い意味での善意があるからこそ、別の何かに対する怒りや憎しみが生まれる。それが結果として大勢の人々を戦争に巻き込んでいくのである。
戦争の悲惨さ、不毛さとは、本来そうした皮肉・逆説に由来するのではないだろうか。
ラブ&ピースという言葉がいつから生まれたのか私は知らないが、愛と平和はしばしばペアで語られる。「愛と優しさをもって戦争をなくそう」というものの言い方も、しばしばなされるようである。
もちろん私も暴力には反対である。だが同時に、正直なところ、愛で暴力を制止できるとは考えられない。少なくとも、そこらへんに転がっている愛ではだめなのだ。
暴力とは恐ろしいものである。暴力を制止できるような愛があるとしたら、それは、暴力そのものよりも、もっと熱く、もっと激しい、もっと激烈な情念であるはずだ。
それは、マザー・テレサのような宗教的な肝っ玉母ちゃんには可能かもしれないが、この世的な価値観で生きている多くの普通の人々に、そのような愛は困難である。
そもそも、中途半端な「愛」とか「優しさ」とか「正義へのこだわり」があるからこそ、人は戦うのではないだろうか。
人は、愛や正義感があるからこそ、この社会を少しでも良くしたいと思うわけである。自分さえよければいいという人ばかりであれば、小さな犯罪は頻発するにしても、大規模な紛争は起こせないだろう。
人は「善く生きる」、「正しく生きる」、「美しく生きる」ことを求め、それにこだわる。そうした思いがなければ、人は自分や仲間の命を危険に晒し、見ず知らずの人間を殺すことなどできない。少なくとも、人は、悪意をもって何かをするときに、自分の命を賭けたりなどしない。
だから究極的には、やはり愛と希望が戦争を支えているのだと言ってもよい。こうした人間存在の皮肉で愚かな逆説をいったん素直に受け入れることが、戦争を考える際の第一歩なのではないだろうか。
▼人は利益だけのために戦うのではない
戦争の理由や動機については、これまでさまざまに議論されてきた。紀元前五世紀のペロポネソス戦争を描いたトゥキディデスの『戦史』では、戦争の動機が三つあげられている。(1)利益、(2)恐怖、(3)名誉、である。また『孫子』などと並ぶ中国の武経七書の一つ、『呉子』では、(1)名誉欲、(2)利益、(3)憎悪、(4)内乱、(5)飢饉、があげられている。
戦争の原因や動機についてはいろいろな見方があるが、「三つのG」というまとめ方がなされることもある。すなわち、金(Gold)、神(God)、栄誉(Glory)という三つである。
だがそれぞれの戦争にはそれぞれの複雑な文脈があり、その理由を一言や二言で説明できるわけではない。平和のつもりで暮らしているなかで、何かがこじれて戦争が起きるのだから、一般論として戦争の原因を指そうとするならば、結局のところ、戦争が始まる
までの平和が戦争の原因だ、と言うシニカルな表現をしてしまいたくもなる。
一般論として、戦争は多かれ少なかれ何らかの利害関係に基づいていると考えることも、決して間違いではないだろう。
ただし、利害が関係しているとはいえ、私は戦争をもっぱら「利益の追求」に基づく営みだと考えることには懐疑的である。というのは、人や集団が、利益の獲得のために自分や仲間の「死」を許容するとは考えにくいからである。利益を追求するうえでは、自分も仲間も生き残らなければまったく意味がない。
人は利益を得るために、大変な努力をし、多少の危険をおかすことはあるにしても、死を覚悟してまで利益を追求するというのは、現実の人間行動としてあまりに不合理であろう。金持ちになるためならば死んでもいい、という人間はまずいない。
では、どのような認識であれば、人は自分や仲間の命を危険にさらすことを許容できるだろうか。それは、「利益の追求」ではなく、「損失の阻止」という認識である。プラスを得るためではなく、マイナスを食い止めるための行為であるという認識のもとでは、人
や集団は、しばしば命を危険にさらすことをためらわないでいられる。
相手の立場からすれば「利益の追求」に見えることも、自分たちの立場からすれば「損失の阻止」として認識されていなければ、大勢の人々を戦いに駆り立てることは困難である。
ある行為が「防衛」すなわち「損失の阻止」であるか、あるいは「攻撃」すなわち「利益の追求」であるかは、所詮は極めて主観的な問題であり、戦後に発言力の強かった側の認識が正しいものとされるに過ぎないことが多いものである。だが当事者たちにとっては、その主観が決定的に重要なのである。
しばしば、「戦争はもはや、どちらの得にもならないことが明白なのだから、無駄な争いはやめるべきだ」という言い方もなされる。だが、戦争を単純に利益の追求だと考えてしまうことは、「戦争」以前に、そもそも「人間」というものを見誤っているのである。
ある研究者は、人命の見地からしても、また財産保護などの見地からしても、今や戦争を遂行するには、あまりにコストがかかるようになってしまっているから、戦争なんてもう無駄であり無意味だと言う。つまり戦争の勝利によって得られる報酬・利益が、それにかかるコストやリスクとてらして割に合わなくなったということだ。一言でいえば、ハイリスク・ローリターンである。
しかし、戦争はそうした費用対効果だけで論じられるものではない。これまで多くの人々が指摘してきたように、名誉、恐怖、あるいは憎悪、信仰、正義感、民族意識などは、戦争にかかわる人々の重要なモチベーションである。私たち人間や社会は、経済的に「割に合わない」という損得勘定だけで戦いを回避できるほど、冷静なものではないのである。
恋愛、友情、結婚、あるいは地域との絆、伝統や文化への愛着、愛郷心、ボランティア活動、スポーツの応援、宗教、学歴、芸術活動、ファッションなど、私たちの日常には、費用対効果や損得勘定を抜きにしても執着してしまう物事や行動がいくらでもある。
戦争や軍事もまったく同じである。戦争を支えているものが純粋な「利益」をめぐる意識だけだとするならば、人類の歴史において、戦争などとっくの昔に消滅していたであろう。
▼「宿命」という意識
多くの平和主義者たちは、戦争は積極的に、意図的に起こされている、と当然のように考えている傾向が強いように思われる。確かに戦争は人間が決断しているのだから、そのように理解することも間違いとは言い切れない。
だが多くの戦争においては、今戦争という手段をとることが自分たちには「必然」であり「やむをえないこと」だと考えられているものである。いつの時代の政治指導者も、兵士も、国民も、「この戦争だけは、これまでのものとはちがうのだ」、「仕方ないのだ」
と感じる傾向が強い。
人類の歴史は、後になって冷静に、相対的に眺めれば、似たような出来事の繰り返しに見えるものである。しかし、多くの場合、それぞれの時代の当事者たちは、目の前の状況を、前例のない特殊なものだと感じるものである。これは先ほど述べた「損失の阻止」、「防衛」という認識とも通じている。
自分たちが積極的に戦争を選択したのではなく、やむをえずそのような状況におかれてしまったのだと考え、またそう感じるからこそ、その戦争に「やりがい」や「使命感」が生まれてしまうのである。
自ら恣意的に、積極的に戦争を選択するのではない。恣意的な戦争には「やりがい」を感じることができない。「いつかと同じような戦争」にも「やりがい」を感じることはできない。生命を賭けることはできない。
人々はしばしば、今回のこの戦争だけは特殊なものであり、これまでとは違う戦いなのだ、と感じる。その必然性の感覚が、戦争の正当化に一役買うのである。必然性の意識、その皮膚感覚こそが、危険や死をもいとわぬ勇気を生み出してしまう。
これまで、いわゆる「正戦論」は、哲学・倫理学・政治思想・宗教思想などの分野でさまざまに議論されてきている。だが、実際の戦争の正当化は、単にそうした哲学的、あるいは神学的な論理だけの問題ではない。実際はそれ以上に、「必然性」の感覚や意識に基づいているのである。
この「必然性」の感覚とは、「宿命」の感覚と言い換えてもよいだろう。
しばしば私たちは、「人間は自由を求める」と思っている。だが私たちは、本音としては、純粋な「自由」などよりも、むしろ自分が生きがいを感じられるような、あるいは自分に都合の良いような「宿命」の方を、歓迎するものではないだろうか。
多くの戦争当事国やテロリストなどが、自らの暴力を「攻撃」ではなくあくまで「防衛」だと称するのも、そうした点と似ている。「攻撃」は自由意思による自発的行為であるのに対して、「防衛」は必然的で、宿命的な、やむをえない行為である。生と死に直接かかわる戦いという恐ろしい営みについて、あるいは悪の選択について、人はそれを「宿命」と認識せねば、受け入れることができない。
宿命であり、必然であり、やむをえないからこそ、人は危険や殺人を躊躇せず、戦うことができてしまうのである。戦いたくないけれども、戦わねばならない。このシチュエーションが、戦争に物語性を与え、やりがいと使命感を与え、戦いを聖なるものにし、魅力的なものにするのである。
▼「命より大切なものはない」は本当か?
しばしば多くの人々は、「命よりも大切なものはない」という。「お国のために命を賭けるなんて馬鹿げている」という人も少なくない。
もちろん私も、命が非常に大切なものであることを否定するものではない。しかし、命が「一番」大切であるかというと、実際には、多くの人々は必ずしもそうは考えていないし、そうは振舞わないのではないだろうかとも思うのである。
というのも、戦争やテロは、そもそも「命よりも大切なものがある」と考えられているからこそ生起するものだからである。
過去にも、また今現在も、正義、信仰、愛国心、あるいは自由や平等のために、人々は戦ってきた。逆に言えば、命こそが大切だからといって、不正義や不平等や不当な抑圧や名誉の毀損を放置することを、人間は許してこなかった。信仰やプライドが命よりも優先された例は、歴史上いくらでもあるはずだ。
人間にとって死の理由は、病気や事故など必然的なものだけではない。何らかの信念や価値観のためにも自分自身の命を犠牲にし、あるいは他人の命や生活を脅かすのが、人間というものである。良くも悪くも、そこにヒトと他の生物との一番大きな違いがある。
たいていの人間は、命はかけがえのないものだと言いつつも、それと同時に、命さえあれば他はどうでもよいとは思っていない。
人間は、自分たちの伝統や文化を守りたいと思い、また貧しい人にも手を差し伸べるべきだと感じ、また不平等や不公平は改めるべきだ、と考える。この世をより理想的なものにしたい、と考えるものである。また、自分たち人間はみな同じだと知りつつも、一部の
人々に差別意識をもち、同時に、特定の人たちに強い仲間意識を持ったりもする。
人間はただ、食って、寝て、子孫を残すだけでは満足できない生き物である。「正しく生きる」、「快適に生きる」、「美しく生きる」ことを求める。愛とか正義とか平和とか理想といったものにこだわるからこそ、「この社会を正しくせねばならない」と思うわけであろう。
そうした思いが通常は政治運動や社会運動へと結びつくが、時にはさらに、戦争やテロへと結びつく。そうした意味で、やはり戦争と平和は、正反対のものなのではなく、むしろ同じ地平にあるものだと考えられねばならない。
私たちは、突如深刻な悩みに襲われれば、わりと容易に「死にたい」と思ってしまうものである。それまでの人生が順調にきていればなおさらその傾向は強い。病気、災害、犯罪被害、あるいは自分自身の失敗、過ち、恥辱など、原因は無数にある。
すでに述べたように、人は自らの考える正義、平和、信仰などの大義のために、危険に身を晒し、自らの死を厭わない行動をとることがあるものだ。そうした例は古今東西において見られ、現在も、これからも、決して珍しいものではないはずである。
そしてまたさらに、人は無償の愛からも命を捧げることができる。線路に落ちた人を救うために命を犠牲にした若者もいるし、わが子のためにすべてを捨てる親もいるだろう。三浦綾子の『塩狩峠』のような自己犠牲の話は、宗教の逸話などにも多く見られるものである。
要するに、人間は、絶望からも、希望からも、死を躊躇しないことがある。いじめを苦に自殺することもあれば、何らかのプライドのために腹を切ることもある。命が大切であることは誰もが知っているが、しかしそれでも人間は、「意味の喪失」あるいは「意味の獲得」によって、死を選択し、死を受け入れることがある。
そして、人は誰かを殺す際にも、いざとなれば意外とそれに躊躇しないものと思われる。人は、民族や、国家や、信仰、あるいは正義や平和などのために、いったん自らの大切な命を投げ出す気構えができてしまうと、他人の命を奪うことにも躊躇しなくなる傾向も持っている。
私たちは、思想的な操作によって、自分の命を自分以外の者のために投げ出すことができるが、同時に、見ず知らずの他人を殺すこともできてしまう。妙な言い方ではあるが、そこに、他の動物とは異なる人間の人間らしさがある。
崇高な思想や信仰は、自らの命を二の次にするほどの魅力をもつことがあるが、それは同時に、他者の命の軽視と紙一重であることも少なくない。それもまた、人間の理性や想像力の限界というものである。
妊娠中絶は、ある宗教的・思想的な立場からすれば「殺人」と見なされるが、別の立場からすれば、単なる「医療行為」に過ぎない。行為としては同一であっても、社会的な文脈や主観的な意識によって、それに対する評価や捉え方は異なるものである。
また人の人に対する態度も、決して一様であったり一貫しているものではない。都市に戦略爆撃をおこない無差別に一般市民を殺害した兵士も、家庭に戻れば妻や子を愛する善き夫である。
戦争という巨大な社会的事象のなかに投げ込まれ、それが大義のもとで遂行されていることを自覚していればいるほど、目の前の敵を撃ち殺すことに対する躊躇は薄まるだろう。あるいは、はるか上空から、レーダーや無人機などで、相手の顔を直接見ずにいれば殺人への抵抗はずっと少なくなる。
私たちの理性や想像力というものには、明らかに限界と矛盾がある。小さな子犬をじかにこの手で刺し殺すことには躊躇を感じても、遠くはなれたことろから人間を攻撃することにはさほど抵抗を感じない。
互いに武器をもって向かい合う修羅場では、名前も知らない敵兵一人ひとりの、かけがえのない人生や、将来や、その家族たちについて、いちいち想像力を働かせることは困難になる。それはその人が特に冷酷なのではなく、人間誰しもに共通する想像力の限界なのである。
それは道徳や人間性だけの問題ではない。どんなに科学技術が発達しても、人が他人を思う理性や想像力のおよぶ範囲は、昔も今も変わらないのである。
平和構築、平和維持という課題において、武力行使よりも外交の方が大事だというのは、端的に「命」に対する人間の人間臭い態度から導き出される結論であるように思われる。
単に、悲惨だから戦争が無意味なのではない。また、利益にならないから戦争が無意味なのでもない。
道徳や損得勘定以前に、私たち人間は、わりと簡単に自らの死を受け入れることができてしまうから、そして、わりと簡単に他者の殺害に躊躇を感じなくなってしまうような理性と想像力の限界があるから、戦争は不毛なのである。
(おわり)
(いしかわ・あきと)