陸海軍の軍医界を二分した脚気対策--脚気と日本陸軍 (荒木肇)

2019年2月6日

From:荒木肇
件名:陸海軍の軍医界を二分した脚気対策--脚気と日本陸軍
2012年(平成24年)10月10日(水)
残暑のお見舞いを申し上げます
 暑さはまだまだ続きますが、それでも朝夕はいくぶんか涼しくもなってきました。みなさま、いかがお過ごしですか。私は早い夏休みをとらせていただき、4日から木曽へ旅行、10日から11日まで山形と会津にお邪魔しました。木曽は涼しく、自然の美しさをたっぷり楽しみ、会津では美しい街並みに感心し、山形では人の心の美しさで心が温まってきました。
 ベー様、建前の計画と現場の実際の違い。前回までを振りかえりますと、日清戦争、とりわけ台湾の領収についての戦闘で、白米しか支給しなかった陸軍部隊ではたいへんな脚気流行が起きてしまいました。どうして陸軍の上層部はこりなかったのでしょうか。そのあたりの組織の問題、指揮官の問題などを考えていきます。
「飯さえ食っていれば大丈夫」の陸軍衛生長官
 こりなかったそのわけには、「飯さえ食っていれば十分だ」という白米至上主義があった。公文書である『明治二十七八年役陸軍衛生事績』の中でも、まだ「白米至上主義」が大きく謳われている。勝ち戦であると、なかなか真剣な反省は行われないという。めんどうな引用は避けるが、要するに、白米6合さえ食べていれば栄養十分だといっている。それだけではなく、おかずについても言及した部分がある。
 副食物は『膏腴豊美(こうゆほうび:脂が多く、見るからに豪華なこと)ヲ期セズ又食素ノ具備ヲ求メス』とある。粗末でもいい、栄養的なことも求めない。なぜなら、栄養学的には白米だけで十分だからだ。では、どういう基準で選んだか。『もっぱら貯蔵しやすく、かさばらず、手に入れやすく、米を食べやすくするもの(現代語に訳した)』を選んだのだ。
 では、具体的に台湾に進駐した陸軍軍隊は何をおかずに支給されたか。梅干し、干魚、つくだ煮、高野豆腐、カンピョウ、カボチャ、いも、シイタケ、大根漬けというものである。みそ汁もたまにしか給与されなかったから、現地部隊からの評判はさんざんなものだった。
日清戦争の惨害を防ごうとした軍医がいた
 土岐頼徳という軍医がいた。医官としての経歴はたいへん古い。1843(天保4)年、美濃(岐阜県)で生まれた。長崎に遊学し、江戸の医学所で学ぶ。石黒の同窓生である。1868(明治2)年から石黒と同じく大学東校(のちの東大医学部)に進み、4年には中助教になった。
 諸説あるが、石黒よりは遅れて軍医になる。ただし、1874(明治7)年の「官員録」に2等軍医正(少佐相等官)として載っている。軍医の最高官等は兵科少将と同じである。つまり、軍医総監(少将)、軍医監(大佐)、1等軍医正(中佐)、2等軍医正(少佐)、1等から3等までの軍医となっていた。
 なお、ついでに軍医総監が中将相当になったのは1897(明治30)年のこと。そのとき、初めて3等軍医正という名称ができた。だから、当時、軍医監だった森鴎外も1等軍医正になった。これを何かの理由で階級を下げられたのだと誤解した文芸評論家がいた。そうではなく、大佐相当官だったことには変わりはない。ただ、階級の呼び方が変わったわけで、左遷されたり、降等処分を受けたりしたわけでもない。
 土岐は西南戦争(1877年)には新撰旅団軍医長として戦地へ、のち仙台、名古屋鎮台の軍医長、1888(明治21)年には近衛軍医長となり麦飯喫食実験を行う。1891(明治24)年には軍医監(大佐相当官)に進む。この間には「東京医学会総会」で『麦飯にすると脚気を消滅できる』と報告しているガチガチの麦飯派だった。
 土岐の軍医としての序列は停年名簿上、日清戦争の時には、石黒、石阪に次ぐ第3位だったろう。戦時には第2軍軍医部長・階級は陸軍軍医監(大佐相当官)だった。この土岐が米飯至上主義の石黒に楯つくのである。正しくは「上申」した。
 1894(明治27)年10月下旬から11月上旬にかけて、第2軍では脚気が発生し始めた。旅順戦のあとに周辺で宿営する部隊、威海衛攻略戦に参加した部隊にも患者が出始めた。脚気の大発生は夏に起こりやすい。この寒い時期にも患者が出始めたというのは、暑くなったら大騒ぎになるという予兆である。そう考えた土岐第2軍軍医部長は第2軍軍司令官の大山巌に「麦飯給与」の稟議をだした。
「本国常居ノ如ク麦飯御給与相成度 若シ右施行困難ノ場合ニ於テ ハ三食ノ内一回ハ必ス麺包(めんぽう:パン)又ハ「ビスケット」 御給与相成候様致度・・・」
種々ノ困難陸続ト発起シ・・・中止
 幸いというか、偶然というか、第1師団長は山地元治である。大阪鎮台でかつて麦飯給与を推進した中将だった。麦飯大賛成である。大山司令官にも、脚気撲滅にその有効なことを口添えしたことは疑いない。
 そして、戦時補職として大本営運輸通信長官だったのが麦飯派の寺内正毅歩兵大佐だった。物資を補給し、輸送手段を決める責任者であり、しかも、本人も若い頃に脚気に苦しみ、漢方医遠田澄庵の治療を受けたことがある。
 こうしてみると、野戦軍に送る物資調達の責任者、大本営の運輸通信長官が賛成し、軍司令官が同意する。これがどうしてうまくいかなかったのか。
 どうやら軍医界の大立者であり米飯至上主義者の石黒が反対したらしい。また、それに森鴎外も同調したという証言が残っている。公文書には「種々の困難が陸続と発生した」などと書いているが、野戦衛生長官と兵站軍医部長が猛反対をしたのだ。
 それは、1908(明治41)年7月、「臨時脚気病調査会発会式」での寺内中将のあいさつの中で明らかになった。寺内はいう。自分も脚気に苦しみ、20年前には遠田医師の指導を受け、この20年来、麦飯を食べている。おかげで脚気から完全に縁が切れている。
 自分は日清戦争中に運輸通信長官だったので、わが軍隊に麦飯を給与しようとしたところ、そのころ石黒男爵(当時、陸軍軍医本部長)は「なぜ、麦など支給するか、麦飯がはたして脚気に効果があるのか」などと自分を詰問しにきた。そして、麦飯支給は完全実施にいたらなかった。そのころは、今、ここにいる森局長(当時、第2軍兵站軍医部長)なども石黒説に賛成して私を詰問された一人である・・・。
 土岐の計画は破れた。海軍のように麦飯を、あるいはパンを、ビスケットをという願いは衛生長官のところで阻止されたのだ。海軍の臨床を重視する立場と、陸軍の原則主義がぶつかったともいえる。これまで、なんとなく陸軍は現実主義で、海軍は合理的というか学問的だという印象があった。ところが、こと脚気対策では陸海両軍の軍医界ではまさに対照的な対応だった。もっとも、現場の陸軍部隊に近い軍医たちは麦飯派だったのだが。
海軍軍医たちは新聞で訴えた
 海軍は日清戦争にのぞんで「戦時糧食条例」を改正した。白米の支給を少なくし、おかず代を2割増しにするという措置をとった。脚気患者数は、戦役を通じてわずかに34名、陸軍の3万人をこえる入院患者と比べると、同じ国の軍隊とは思えないほどである。
 1895(明治28)年9月の「時事新報」には海軍大軍医(大尉相当官)の寄稿文がのった。『陸軍兵士の脚気病に就て』と題していた。
 大軍医というのは大尉(ダイイ)相当官である。海軍は創設当初、「乗り組み四文官」として、機関・秘書・主計・医官を採用した。のちにすべて武官の士官になったが、階級呼称を大・中・少とした。大機関士、大主計、大軍医(いずれも兵科大尉相当官)、中機関士(中尉相当)、少主計(少尉相当)などである。
 陸軍は、これとちがって1等、2等、3等という。1等軍医とは大尉相当官の軍医である。だから、海軍は大尉、大佐を「ダイイ・ダイサ」という呼び方になった。陸軍はタイイ、タイサである。なお、佐官相当官には、陸軍は軍医正、主計正などと「正」をつけ、海軍は「監」をつけた。1等軍医正は陸軍大佐相当官、軍医大監とは海軍大佐相当官のそれぞれ軍医をいう。以上は余談。
 この投稿者石神大軍医はこう述べた。海軍も過去はたいへんだった。明治17(1884)年に食物を改良してすべて防ぐことができた。陸軍もそうすればいい。当局者は猛省せよという意見である。
 さらに11月、斎藤大軍医も投稿する。軍艦「吉野」での例をあげ、糧食が適切だったから脚気が防げたことを証明し、さらに台湾での事例も紹介した。炎熱のせいなどというが、海軍の澎湖島(ほうことう)に勤務した水雷隊の80名あまりは脚気などにかからなかった。理由は適正な食事である。改良せよ。
医学専門誌で反論をする陸軍軍医
 斎藤大軍医の投稿から2週間後、医事雑誌である「東京医事新報」に仮名による陸軍軍医の投稿記事がのった。海軍軍医側が一般社会にも広く実情を知らせようとして一般新聞に投書した。それに対して、専門紙で反論しようとするわけだ。しかも、匿名である。
 その要旨は、
1、 帝国医科大学(帝国大学は、文科大学、理科大学、法科大学などの集合体だった。だから、トップを総長といった。医科大学長はのちの医学部長である)でも脚気の病原病理は不明である。海軍軍医はそれを解明したのか。また、それは世界の医学者の世界で認められたのか。
2、 病原病理を明らかにしなくては、ほんとうに予防し得たのか、治し得たのかは確言できないではないか。
3、 石神大軍医は陸軍兵の食物が悪いというが、森軍医正(森鴎外)の試験によれば陸軍兵食は不良ではない。最近では、食物の充足・不足を論ずるには熱量(カロリー)があり、海軍軍医界がいうような窒素と炭素の比例などといった古臭い標準によらないで指示されたい。
4、 食物をよくすれば脚気がただちに防げるというが、次のような疑いがある。
イ、食物が悪いから脚気になるというなら、食物が不足している貧しい人に脚気が少なく、中等以上の生活者に脚気が多いのか。また、食物については中等以上と思われる兵士と学生に多く脚気が出るのか。
ロ、なぜ、少年と40歳以上の人には少なく、20歳前後に患者が多いのか。
ハ、男子に脚気が多く、女性に少ないのか。
ニ、脚気患者は転地療法を受けるとすぐ治る、それは食物とどう関係があるのか。
ホ、精進潔斎する禅僧にどうして脚気が少ないのか。
ヘ、食物に差がなくても、まったく脚気が生まれない土地があるのはどうしてか。
 以上、堂々たる反論である。ビタミンというものが知られていない時代では、とうてい答えられない疑問ばかりだろう。
(以下次号)
(荒木肇)